祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書18章31~43節

皆さんは「忘れ物」をすることがあるだろうか。大事なもの、必要なものをどこかに置き忘れる、あるいは失くしてしまう、という経験は誰しもあるだろう。おみくじには「失せ物」、という項目が設けられている。ものを失くした時には、皆さん、どうしているか。とにかく探してみる。そこいら中、引っ掻き回し、ひっくり返して見る。あるいは、なくした時の自分の行動をよく思い出し、それを再現してみる。または家族や知人を巻き込んで、捜してもらう。しかし「あきらめる」、というのが一番、誰にも迷惑を掛けない方法かもしれない。井上陽水の歌にあるように、「捜し物は何ですか、見つけにくいものですか、カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに、まだまだ探す気ですか」。

ある時、大事な印鑑を失くしてしまったことがある。いろいろな場所を探したのに、一向に見つからない。それで半ば諦めて、気持ちを変えるために「手でも洗おう」と思い、洗面所に行ったら、なぜかそこに捜していた印鑑が置かれている。「探すのをやめた時、見つかることもよくある話で」、の通りとなった次第。「失せ物」は、心や気持ちを変えて見なければ、見つからないのかもしれない。

養老孟司(解剖学者)氏と佐治晴夫(理論生物学者)氏の対談集『「わかる」ことは「かわる」こと』の中に、こういう一節が記されている。養老「つまり、その人の行動なり、考えなり、世界観なりがその段階で変わっていない。言ってみれば、小手先を変えればすむと思っているということです」。佐治「『わかる』ということが、『わ』と『か』を入れ替えて『かわる』ということになっていない、ということですね」。

本当に「わかる」ためには自分の行動を変えて見て、「かわる」ことで「わかる」しかない。逆に、思考が変われば、行動も変わらざるを得ないということがわからない。だから、知識が自分をすこしも変えずに「ただの知識」になってしまう、というのが人間の試行かもしれない、というのである。

今日の聖書の個所は、主イエスの一行が、いよいよエルサレムに入城する直前の出来事である。主イエスは、エルサレムでご自分に降りかかるであろう過酷な運命、「十字架」の道をはっきりと弟子たちに語られた。しかし、これが初めてではない。もう三度目である。どうして主はご自分の運命を悟られたか、「預言者が書いている通り」と言われる。神の言葉は、語られたように必ず実現する。ところが人間は、人間のレベル(地平)でしか物事を考えることはできない。人間の地平に留まる限り、「見たい現実しか見ようとしない」のである。

しかし、神が本当にそのみ言葉を実現される時には、驚き怖れつつ、それが確かであることを、ようやく悟るのである。それもずっと後になってから、初めて悟るのである。34節「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」。ルカはしつこいほどに、弟子の無理解の姿を繰り返し語る。それは、弟子達のみならず、私たちもまたそうである。「分からない、隠されている、理解できない」。ここで「隠されている」と訳されている言葉は、「ふたをする」という意味合いの用語である。瓶ずめの容器のふたが、硬くて取れない、という経験はないか。ただこじ開けようと力をいっぱいに回して見ても、ただ掌がひりひり痛いだけ。ところが開けるためには、コツがある。そのコツを知っている人の手にかかれば、簡単にふたが開き、手品のようである。

主イエスのみ言葉を、ただ「知識」や「教養」として聞くならば、恐らくは何のことやらさっぱり分からない、ということになるのではないか。主イエスのみ言葉は、主イエスがそうされたように、生きて働いて、身体を動かして知るものであろう。み言葉を少しでも生きようとするなら、その真実が見えて来る、瓶のふたが開くのである。

弟子の無理解の記事に続けて、ルカは「盲人の癒し」の場面を語る。「ナザレのイエスのお通りだ」との知らせを受けて、この物乞いをしていた盲人は、大きな叫びを上げる。「ダビデの子イエス、憐れんでください」。先に行く人々は、彼を叱りつけて黙らせようとした。この「先を行く人々」とは、「露払い」的な役割をしていた弟子達だろう。有名人や有力者が道を歩くと、取材の記者、ジャーナリストがインタヴューを試みる。時にはVIPの安全が脅かされることもある。だいいち先生はお忙しい、という訳で弟子たちはそれを阻止しようとする。先生の為を思ってのこと、弟子たちは、善意と正義の名の下に行動している。先生をお守りしなければ。しかし、その善意と正義の行動が、主イエスを最も必要としている人を外に追いやってしまう、真の救いから遠ざけてしまう、ということがある。ここでも弟子たちは分かっていない。

しかし主は、この盲人の叫びを聞かれる。人の必要をちゃんと受け止められるのである。ひとつ気になる言葉がある。この叫び続けた盲人に、主イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねられる。どうしてだろうか。この言葉は最も主イエスらしい言葉の一つだと思える。

先ほど、「善意と正義が人を阻害する」と申し上げた。人間、病気ならば治りたいと思うのは当然だ、というかもしれない。しかしそれとても、一面的思考、あるいは「決めつけ」であることは否めないのではないか。病気が治れば、人生の問題はすべて解決し、上手くいくというものでもないだろう。治ったら、治ったなりに、新しい人生の局面が始まるのである。「新しい」とはいえ、すべてが順調で、問題のない人生などない。だからこの主イエスが問われた「何をしてほしいのか」とは、「祈り」と呼応している問いなのである。「それはあなたの心のほんとうの祈りであるか」。祈りにおいて、私たちは自分を偽ることはできない。だからそこで初めて、主イエスにまっすぐに向き合えるのである。だから主イエスは「何をしてほしいのか」と問われる。主イエスは私たちの祈りを、拒絶されることはない。

「瓶のふた」と申し上げた。ほんとうにそのふたを開けることが出来るのは、誰であろうか。心のふたは、自分でもこじ開けられないものではないか。それほど私たちの我(エゴ)は強いのである。運命を深く知りつつ、エルサレムに入られ、十字架に上げられ、血を流し、最期まで罪人のために祈り、取り成して下さった方だけが、かたくなな心のふたを開いてくださるのではないか。