「ひとりではない」ヨハネによる福音書16章25~33節

小さい頃に、一番怖かったことは何であろう。おそらくそれは「迷子になる」ということではなかったか。実際に、幼少期は迷子になるものである。昔はデパートやショッピングセンターで、よく「迷子のアナウンス」が流されたものである。「♪~歳くらいの~色の服を着たお子様が…」。迷子になった小さい子どもは、本気で心配するものだ、「自分は置き去りにされたのではないか(Left behind)」。
ジョルジュ・ルオーの絵画に「郊外のキリスト」という作品がある。この国のブリヂストン美術館に所蔵されている。時は夕暮れ、寂しく人の気配もあかりもない場所、月が照らすどこかの田舎町の路上で、迷子になったのだろうか、小さな子ども二人に、主イエスが声をかけているという構図である。主イエスは、背を幾分かまげて、身を低くして幼いふたりに語りかけている。主イエスは、そういう迷子に声を掛けて下さる方だ、というルオーの信仰告白がそこに表現されているのであろう。おそらくルカによる福音書の「エマオ途上の旅人」の物語を、ルオーはその絵のように心に描いたのであろう。彼は、人間とは、迷子になって、悲しく道に彷徨っている子どものようなものであり、それでも誰も路上に捨てられ、置き去りにされているのではなく、声を掛けて下さる主イエスがおられる、と語りかけているのであろう。
こういう新聞コラムを読んだ。「鏡の国のアリス」に出てくる赤の女王はアリスに言う。「いいこと、ここでは同じ場所にとどまるためには、全力で走り続けなければならないのよ」。トレーニングジムのランニングマシンみたいな話である。「赤の女王効果」とは、絶えず進化し続けていないと存続すらできない生物界の種の間の競争を表すたとえである。(5月1日付毎日新聞「余禄」)
「いつも全力で走らなければ」、迷子になって、置き去りにされてしまう。この世の典型的な価値観のひとつであろう。そういう営みの中で、現代文明は築かれて来たし、その絶え間ない努力の積み重ねを通して、文明生活は何とか保持されているのである。ところが、今、私たちが置かれている場所は、必死になって走ってきたけれど、それでも私たち自身が、迷子になって、置き去りにされている、という状況なのである。しかも自分の家の中に、息をひそめて。
今日の聖書個所は、ヨハネ福音書の、いわゆる「主イエスの告別説教」あるいは「遺言」と呼ばれるものの、最後の部分である。この一連の語りは「しかし、元気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」との力強いみ言葉で閉じられており、それを聞く私たちも実に勇気づけられる思いにさせられる。確かに主イエスの「勝利」が告げられる。この世に対して、神は打ち勝っておられる、というのである。それではその「勝利」とはどのようなものか。十字架に付けられ、復活された方の「勝利」は、武力や経済、あるいは技術によるこの世的な勝利ではないだろう。それを理解するための手掛かりは、直前の言葉にあるが、私たちはそのみ言葉を、どう受け止めるのであろうか。
32節「だが、あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」。主イエスを置き去りにして、皆、ちりじりばらばらに、家に帰ってしまう、というのである。この言葉は、十字架の場面が強く意識されている。主が十字架につけられた時、弟子たちはどうしたか。皆、主を見捨て、逃げてしまったという。一番弟子のペトロですらも、勇を奮い、ひそかにもぐりこんだ大祭司の庭で、「あなたもあの人の仲間だ」と問われて、主を否認したのである。そして福音書の末尾には、ペトロを始め漁師出身の者たちが、皆、故郷に戻り、ガリラヤ湖で漁をしている場面が伝えられる。おそば近くに居た誰も、最も身近に生きた者たちも、最後には、主イエスと共にいることはできなかった。
これは私たちの信念や信仰の弱さを、努力の足りなさ、ふがいなさを責める言葉なのだろうか。塚本虎二氏は、31節をこう訳している。「イエスは(いとおしげに彼らを見やりながら)答えられた、『いま信ずるというのか』」。主イエスは私たちの「信」を喜んでくださり、受け入れて下さる。しかし同時に、私たちの人間の現実をよく知っておられるのである。「(いとおしげに彼らを見やりながら)」、確かに根性なしの私たちではあるが、そんな私たちをいとうしみ、拒絶されることはない。自分を捨てるであろう小さな者たちを、ありのままに受け止められる、この主の心を忘れたくない。
しかし、32節にはこの言葉も付け加えられていることに注意したい。「いや、既に来ている」。つまり「これから起こること」ではなく、「今、それが現実」となっている、誰かを「置き去りにする」、「置いてけぼりにする」ところが、私たちの生きる世界なのだというのである。「赤の女王効果」の中で、ひたすらわき目も降らず走り続けるこの世界が、ありのままに主から示されているのである。この世は人を置き去りにする世界である。だから、容易く人間が、迷子の幼子のように、見捨てられ、放っておかれ、後に取り残されるのである。それが嫌ならさあ歩け、と追い立てられるのである。
“No one will be left behind”、日本語に訳せば、「だれも置き去りにしない」あるいは「だれひとり取り残さない」。この言葉は、2015年9月25日の国連総会で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に語られている言葉である。2000年の国連ミレニアム・サミットで策定されたミレニアム開発目標(MDGs)が2015年で終了することを受け、国連が向こう15年間(2030年まで)の新たな持続可能な開発の指針を策定したものである。では「持続可能な開発目標」とは」具体的にはどういうものか。
・1日1.25ドル未満で暮らす極度の貧困層をなくす
・飢餓をなくし、全ての人に安全で充分な食糧を提供する
・新生児と5歳未満の子供の予防可能な死亡事例をなくす
・全ての子供が質の高い初等・中等教育を受けられるようにする
・女性や少女への性別による差別を無くす
・全ての人に安全で安価な飲料水を提供する
・再生可能エネルギーの利用比率を大幅に向上させる
・自然災害などに強い生活環境の整備を進める
・子供に対する虐待や搾取、人身売買などを無くす
国連の「持続可能な開発のための2030アジェンダ」、その標語“No one will be left behind”は、人間を「放り出し、置き去りにする」、「赤の女王効果」の世界に何とかくさびを打ち込もうとする抵抗であるが、それは取りも直さず「わたしをひとりきりにする時が来る、いや、既に来ている」と語られ、「放り出され、置き去りにされた主の心、そして祈りに対する「応答」であるだろう。
ある人が、ルオーの絵画「郊外のキリスト」に寄せてこのような感想を語っている。「2人の子どもに寄り添い立つのは、親ではなくキリストなんですね。なんだか力なくうなだれて、子ども達の空腹や痛みを分かち合っているかのよう。ルオーの描くキリストはいつも申し訳なさそうな雰囲気で、けれど無言の優しさが、作品のなかに満ち溢れています。奇跡なんかは起こりようのない、ちっぽけなキリストの姿だけど、だからこそ無宗教者の自分でも、素直に画家の祈りに身を任すことができるのかもしれません」。
非信仰者にとっても、ルオーの絵は「祈り」となる。それは取りも直さず、主イエスの祈りへと、私たちを連れて行く。その祈りの中で、迷子のような私たちも、深く安堵するのである。この世に対して、何という勝利であろう。