アイザック・ニュートンは万有引力の法則の発見だけでなく、積分学や光学の研究などでも優れた研究成果を上げた人である。1643年に英国で生まれて1661年にケンブリッジ大学に入学した。学生時代、英国でペストが猛威を振るった。1665年には、ロンドンだけでも3万人以上が亡くなったという。その影響によって、ケンブリッジ大学が休校に追い込まれた。ニュートンはペスト禍を避けるため、1655年から1656年の間、故郷のウールスソープに戻った。いわばペスト疎開である。郷里は東部の寒村。そこではカレッジでの雑務や人間関係から解放され、これまでの着想をじっくりと思索する時間を持てたという。ここでの18カ月の生活は、集中して勉強するための、十分な時となったという。
彼が、リンゴが落ちるのを見て、引力の法則に気付いた、という有名な伝説は、ここで生まれたのである。ニュートンの、いわゆる「三大業績」(微積分法の証明、プリズムでの分光の実験、万有引力の着想)はすべてこの時期になされたものである。ペスト禍のため、やむを得ず故郷に戻っていたこの期間は、「ニュートンの創造的休暇」と言われるようになった。彼は中世という古い時代を切切り裂いて、近世という新しい時代切り開いた画期的な科学者、という評価を生みだしたのである。
先週に引き続き、ローマの信徒への手紙を読む。使徒パウロが、まだ見ぬローマの町にある教会の人々に、自己紹介のために書き送った書簡が、この文書である。大方の聖書学者は、彼の第3回目の宣教旅行の最終期、紀元55年~56頃に、エフェソで記されたものであろうと考える。彼の手紙中、もっとも大部なものであり、宗教思想の総括ともいうべき内容が語られているので、古来から、新約中で最重要な文書のひとつ、とみなされて来た。この手紙が与えた影響力には、大きなものがある。
今日の聖書個所には、多くの信仰者によって、しばしば愛唱されてきた、今もされる有名な章句が記されている。3節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。福音によって生きるキリスト者の現実が、分かりやすく短く切り取られ、証されている。こういう見事な言葉を紡げるのが、パウロの知性といえるだろう。
但し、この有名な章句は、文脈から言えば、少々横道にそれた「道草」ともいうべき言葉なのである。「道草によって、道の味が分かる」(河合隼雄)と語られるように、ただ目的地に言って、まっすぐ帰ってくればよい、というのでは、旅行の楽しさも、味わいも半減どころか無味乾燥になってしまうだろう。時に迷ったり、間違ったりするのも、旅の楽しさである。道草したおかげで、思いもかけない人情に触れれることもある。
この章でのパウロの主張は、「神との和解」を主題として論じている。すべて人間の問題の根は、神との関係にある、とパウロは語るのである。確かに「関係」こそが、人間の抱える一番の厄介事である。関係如何によって、人間のあり方が左右されるのである。最近の新聞記事が伝えるところによると、現在の「巣ごもり生活」で、自宅で過ごすことを余儀なくされている子ども達の中で、学校が好きな子、アウトドア志向の子ども、つまりアクティブな児童は、非常に心が疲労している。他方、学校からのプリント課題が提示されると、集団が苦手な子の方が、真っ先に提出する(つまり自分から積極的に課題に取り組む姿勢ができている)、といった教員の声が寄せられている。社会の状況が変わり、関係の変化が生じたため、子どもの心に力が与えられたり、逆に意気消沈したりするのである。そして大人もおなじことである。
私たちは、「関係」というと、真っ先に「人間関係」を考える。ところがそれまでの人間と人間との当たり前の関係が、制限されたり、否定されたりすると、混乱に陥ったり、却って疲労するのである。つまり、人間と人間の関係だけで、自分の生きている世界が成り立っているのではないことが、初めてわかるのである。
生命の尊さや価値、あるいは生きる幸いという問題を、他人事ではなくて自分の問題として考える時に、しかも誰か、他の人間との関係を、容易に保てないような時に、ただ自分自身と向かい合うだけでは、息がつまってしまうのである。他者が不在の中で、本当に対話できる存在が、どうしても必要になって来る。自分だけでは堂々巡りをするしかない。今の私たちの生活の中で、経験されていることは、究極の他者、つまり神の不在の問題なのである。人間を超えた「神」に、向かい合う他に、見出すことのできない領域が、確かに存在するのである。
「苦難」とパウロは呼ぶ。大きく言うならキリスト者の加えられる「迫害」のことを指しているが、まだこの時代、ネロ皇帝によるような大迫害は、起こっていない。しかし陰に日向に、教会に属する人々に加えられる有形無形の圧迫は、キリスト者の心に重くのし掛かっていたであろう。現在も「巣ごもり」からのわずかの逸脱も許さない、「正義の使徒」が、いろいろな所(特にネット上)に出没するのである。
ここでパウロの思考の面白さは、「苦難」への対処の方法を、マニュアル的に指示していることである。まず「苦難」は「誇り」なのだという。「苦しみ」は、人それぞれであり、相互に比較できないものである。その人にしか受け止められないからこそ、「苦しみ」なのである。簡単に誰かが代わってくれるものなら、そもそも「苦しみ」などではない。だから苦しむことは、「その人にしかできない英雄的な業績」(フランクル)なのである。それに励まされて、私たちは「忍耐」をする。忍耐はただ下を向いて、苦しみが過ぎ去るのを、じっと我慢することではない。顔を上げて神と対話すること、即ち、「祈り」によって、成し遂げられるのである。
さらにそれを通して発見されることがある。それは「練達」であるという。一般に「スキル」と呼ばれるが、元々、「試金石(雅1:3)によって試されて、合格したものの状態」を表す用語である。つまりいろいろ試して、今、できることを見出して、つれずれの中で、とにかくやってみることである。「八十の手習い」というではないか。それが形になってくれば、励みにもなるし、喜びや楽しみにもなる、それこそが「希望」である。そしてそれは地に足の着いたところから生まれたものであるから、「欺くことがない」のである。「信仰」の歩みも同じことだとパウロはいう。
5月7日の朝のテレビ番組で、長くホームレス支援の活動を続けている、奥田知志牧師がインタヴューを受けていた。リストラや雇止め、会社の倒産等で、ホームレスの方が増える傾向にある状況の中で、炊き出しに、地域に住む人々が列に並ぶ動きが見えるという。既成の国や地域の在り方が崩壊するのでは、と問われて、奥田氏は「これがきっかけで新しく始まる世界が必ずあります」と語っていたのが印象的である。この先にも、この世界に希望はあることを、はっきりと示されたのである。苦しみの中にある希望への道を、ひとつ一つたどって行きたい。