祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙2章1~16節

こういうコラムに出会った。不要不急のことをあえてやる、と言ったら叱られるだろうか。もちろん直ちに必要のない外出は厳に控えなければならない。でも家の中でなら、普段はあまりやらないことに取り組んでもいいはずだ。連日のように自粛、自粛と聞かされてばかりでふさぎ込んだり、うんざりしたりする人もいるだろう。「自粛疲れ」などという言葉も聞く。一生懸命取り組むあまり、どこかで心の張りがぷつんと途切れてしまうかもしれない。反動が起きるのは怖い。「今の日本社会を包むのは『不要不急』の話題を許さない空気かもしれません」。社会学者の富永京子さんが話している。社会運動に連なる人の間では「運動疲れ」という言葉があるという。真剣かつまじめに取り組むあまり、心身ともに疲れ果てることを指すようだ。
「真剣かつまじめに取り組むあまり、心身ともに疲れ果てる」とは、現在の私たちの抱える状況と問題点を、そのまま切り取ったように思える。「ステイホーム」で、普段なおざりの部屋の片づけを始め、書き損じの葉書やら、小残額の通帳やらが見つかり、それを交換、解約に出かけて、却って窓口に大勢の人が集まって「密」の状況が生じている、とのニュースも伝えられた。「真剣かつまじめ」が、「不要不急」を作り出す、いささか滑稽な風景も自分自身の生活の中に、生じて来ている。
さて今日の個所は、ローマの信徒への手紙2章前半である。「日毎の糧」の聖書日課の聖書個所なのだが、不思議にも、今の私たちを取り巻く状況に対して語られているようで、いささかぎくりとさせられる。テキストのテーマは「裁き」である。
私たちが、礼拝の度に口にする「使徒信条」の中に、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白されているように、「神(キリスト)の裁き」をキリスト教は教理として語るのである。私たちは、「神の裁き」をどう受け止めているのであろうか。
20世紀最大に神学者と評されるカール・バルトにまつわる小話の次のものがある。「かの偉大な神学者が、天に召され、天国の門番のペトロのところにやって来た。ペトロは彼の姿を見て、規則に従い、門を開くための簡単な試問をするように、聖霊に頼んだ。しかし雲の陰から響く、二人の問答の声は、次第に大きく大きく雷鳴のようになり、何時間にも及んだ。天使ガブリエルが血相を変えてペトロのところにやって来た。ペトロが『まさかバルトが試験に落ちたのか』と尋ねると、天使は答えた『いえ、落第したのは聖霊の方です』」。
この話、人間というものを見事にとらえているように思える。つまり「真剣でまじめ」なあまり、神や聖霊をも「裁く」のである。9節に「すべて悪を行う者」という言葉が見える。「悪」というと、私たちはすぐに倫理的道徳的に考えてしまい、犯罪を犯す、とか反社会的な行動をイメージしてしまう。本来、聖書的な「悪」とは、悪い行い、とか神への反逆・敵対というニュアンスはない。神にとっては、人間の反逆や敵対など、痛くもかゆくもないのである。逆に、神に反発していたような人が、教会で熱心な信仰者として生きるようになるものである。信従であれ反発であれ、どこかで神と関わっているのである。繋がっていれば、とにかく道は通じている。ところが「悪」とは、神への道が全くない、道そのものがない、ということなのである。即ち「無関心」である。神への無関心が何を呼び起こすのか、今日の個所でパウロが語ろうとするところである。
1節「人を裁く者よ」。と彼は呼びかける。「裁き」は、ひとえに「神のわざ」なのである。神だけの「特権」なのである。ところが人間がその特権を行使しようとするのである。
なぜなら、「神の裁きはあてにならない、神の正しさを待っていたら日が暮れる」と人間は勝手に判断し、神に成り代わり、裁こうとするからである。「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」のである、「人を呪わば、穴二つ」である。
そもそも「裁き」がなぜ「神の特権」なのか。どうも私たちは、「裁き」という言葉で、「裁判」を連想してしまうところに問題がある。「裁き」とは「断罪」のことと了解しているからである。ところが「裁き」という用語は元来「捌き」から来ていると言われる。「捌き」とは、ものを仕分けることである。必要品、不要品を分別することが、「捌く」ことである。さて、皆さんは、果たしてこれが上手くできるだろうか。部屋の片づけで、いろいろものがあふれている。「断捨離」したいと思うが、そうは簡単にはいかない。どれもいらないもののようで、放るのに惜しい、これから先、必要になるかも、いろいろ考え、その挙句、元の木阿弥ということはないか。これが生活用品ではなく、自分の人生の「捌き」となると、どうだろうか。何が必要で、何が不必要、何が価値があり、何が無駄であるか、正しく評価し、判断できる人は、おそらくいないだろう。結局、自分の目から見て、すべてが無駄、無意味に思える、これこそ「苦しみと悩み」(9節)の極みである。ひとり一人の人生、生命のすべてを見て、正しく「捌く」ことのできる方は、神を措いて他にない。それでも私たちは、誰かを裁くのだろうか。
私たちは、他人どころか、自分自身の人生を正当に「裁き、捌く」ことはできない。ただ神のみ前で、それを示されるのみである。16節「人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」。つまり、いつか、私の人生のほんとうが、明らかにされる時が来るのである。
最初の記事の続きをもう少し。野菜だけを食べ続けることに疲れないよう、時々フライドチキンを食べるベジタリアンもいるそうだ。富永さんは、今の状況を乗り切るために「逃げるのではなく、現実から少し距離を置いてもいいのではないでしょうか」と提案している。「こんな時だからこそ」。こうしたフレーズを、あちらこちらで聞くようになった。感染リスクの低い環境でなら、以前は「不要不急」と考えていたことをやってみるのも悪くない。そう自分に言い聞かせ、普段は物置のように使っていた部屋を掃除してみた。気分転換になったのは間違いない。すっかりくたびれたのはご愛嬌(あいきょう)。出掛ける気力もなくなったから、それはそれでよしか。(新潟新聞「日報抄」4月30日付)