よく知られているイソップの寓話の中に「キツネとぶどう」の話がある。腹ペコの狐が、たわわに実ったぶどうを発見する。「おいしそうだ」、手を伸ばして取ろうとするが、ぶどうの実は高いところに実っていて、どうがんばっても手が届かずどうしても取ることができない。あきらめた狐は負け惜しみを言う「どうせあの実は酸っぱいや」。
この話は心理学で「認知的不協和」を教える話としてよく取り上げられている。「自己内に矛盾する認知を抱えた時に生じる不快感のこと。心理学者フェスティンガー(Leon Festinger 1919~89)が提唱した概念。認知的不協和を解消するために、自分を納得させられるような理屈や言い訳を考えて、態度や行動を調整する」(松田英子)のだという。そうなりたいが、そうなれない、そうあれない時に、人間はいろいろ言い訳をして、自分を納得させ、慰撫しようとするのだという。そこでこんな話を聞いた。
「ぶどうの品種は数多い。それは、様々なニーズに応えて改良を繰り返してきたためだ。その始まりは、「すっぱいぶどうを甘くすること」だったという。続いて、大きくしよう、皮ごと食べよう、種をなくそう…。ぶどうに対する人類の欲求は、とどまる所を知らない。そんな中、今年9月、期待の新星が堂々デビューを果たした。その名は『クイーンルージュ』。気品あふれる紅い実は、皮ごと、種なし、高糖度と三拍子そろっている。今後ブドウ界を席巻すること間違いなしの大型新人だが、ある感想に私は度肝を抜かれた。『大変甘い。美味しい。ただ、もう少し酸味が欲しい』。なんと、ここにきて人類は、再びぶどうに酸味を求め出した。要求が一巡している。イソップの狐もびっくり」(冨士原圭希「酸っぱいぶどうの逆襲」)。
山梨県には小高い丘陵地に美しいぶどう園が拡がっているが、ぶどう農家にひとつの「言い伝え」があると聞いた。「ぶどうの木には、毎日」、何かをしてやらなくてはいけないのだという。何をするというのか。それは「毎日、足音を聞かせてやらなくてはいけない」。「足音」、家族や友人、親しい人の足音は、その音を聴くだけで、姿が見えなくても誰が来たのか分かる。ひとり一人、そのリズムやテンポ、強弱が違う、個性が反映されるのである。自分には個性がない、らしさがない、等ということはない、ちゃんと個性は備わっており、それが自ずと表現されている、それが人が生きる、ということである。
今日、お読みした聖書個所は、教会、そして信仰者とは何かを明らかにするために語られた喩え、もっともよく知られた物語であろう。1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」また5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。主イエスがぶどうの木、また私たちがその枝であるという。そして神は「農夫」であるという。主イエスの時代、ぶどう園の持ち主、主人は、ぶどう園で働くことはしない、そもそもぶどう園の近くには住んでいないのである。遠く離れた町、例えばエルサレムのような都会に住んでいて、遠くから召し使いに指図をするくらいのものだ。秋にぶどうが実ってそれが売れて儲けが出たら、町からぶどう園にやって来て、何も苦労しないで、収入だけをごっそりと持って帰るのである。
ところが主イエスは、神は農夫、ぶどう園の働き人、労働者であるという。ふんぞりかえって、お金を数え、部下に命令するくらいで、身体を動かそうとしない偉い人などではない、という。毎日、ぶどう園に行って、ぶどうの木の周りを歩いて、ぶどうの木がちゃんと育っているか、駄目になっていないかを見守り、ぶどうの木のためにあれこれあれこれ細々した世話を焼く、額に汗して身体を動かして、働く方なのだという。神さまのことを、毎日せっせと歩き回り、汗をかいて、働く人というイメージで、皆さんは考えているだろうか。
前述した「毎日、足音を聞かせなければいけない」という教訓は、もちろんものの喩えだが、ぶどう園の仕事の実際をよく表現している「味のある言い方」だと思わされる。あるぶどうの栽培家は自らの仕事をこう説明している。「ぶどうはとても手のかかる作物です。苗木を植えてから収穫までに5年程度かかります。はさみを使って、切る作業がとても多いです。一房一房、一粒一粒を丁寧に処理していきます。数週間同じ作業が続くことも多々あるので、集中力と忍耐力が必要です。こつこつ作業することが好きな人にはぴったりかもしれません」。「とても手のかかる作物」、「はさみを使って、一房一房、一粒一粒を丁寧に、こつこつと」という作業が必要なことを、「毎日、足音を聞かせる」と喩えているのである。片手間でできる仕事ではない、と感じさせられる。
春にぶどうの木が枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせる。暑い夏を経て、やがて実りの秋となり、豊かな実をつける。待ちに待ったぶどうの収穫、喜びの時を迎える。その間、ぶどう作りは休む暇がない、とも言われる。めでたくぶどうが実り、その豊かな実を摘み取り、ぶどうの収穫が終わり、季節は秋から冬へと向かう。冬の時季、農夫は何をするのか、何もしないで休んで、春になったらまた仕事を始めよう、それまでは寝て暮らそう、という訳にはいかない。
2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」、こういうみ言葉に、ぶどう作りの肝心要がよく語られている。ぶどうの世話をする農夫は、はさみでぶどうの枝を丹念に切って、こつこつと手入れをして行く。そして「実を結ばない枝を取り除かれる」という。実際、ぶどうの実の収穫が終わると、ぶどう作りの農夫は、一斉に枝の刈り入れ作業を行う。ほぼ丸坊主になるくらい、ぶどうの枝を刈り込むのである。こんなに刈り込んで、切り取って、取り除いたら、ぶどうの木が駄目になってしまわないだろうか、と心配させられるくらい大胆に刈り込むのである。
「実を結ばない枝」、こういうみ言葉を聞くと、ぎくりとさせられるだろう。「わたし」という枝は、ほんとうに実を結ぶことのできる、「良い枝」なのだろうか。余り実りの良くない、おいしい実を付けない「悪い枝」なのではないか、と。しかし「実を結ばない」とは「良い、悪い」、「できる、できない」、という評価や区別を表している言葉ではない。「実を結ばない」枝というのは、「今年、実をつけた枝」のことなのである。いわば古い枝なのだが、一度実をつけた枝からは、次の年には実はならないのである。ぶどうの木というものは、新しい枝に、新しい実がなる、だから新しい枝が、のびのびと伸びるように、農夫は、今年実をつけた古い枝をみな刈り込んで行く。「枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」。フランスなどでは刈り取った枝を集めて、山にして火をつけて、その火で肉を焼いて、できたばかりのぶどう酒と共に味わうそうである。思わず涎の出そうなぶどう園の生活習慣である。
今年実をつけた、古い枝からは、新しいぶどうは実らない、新しい実は、新しい枝か
ら、生まれる、このみ言葉は、創立50周年を迎えた私たちの心に、いささか重く響く。果たしてこれから、わたしたちは新しい枝を育み、伸ばして行くことができるだろうか、古い枝のような私たちが、一体、どのようなことをしたら新しい枝を伸ばして行くことができるのだろうか。喜びと共に、このような不安をいつも教会は抱えるのである。しかし、神は、働かせるだけ働かせて、儲けだけをごっそり奪い取って行くこの世の貪欲な主人のようではない。自ら「農夫」であると告げられる。2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。神が自ら働いてくださる、新しい枝のために、毎日、足音を聞かせてくださる、「わたしがいるから大丈夫」というのである。
そのために私たちができることは何か。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」、「主イエスはまことのぶどうの木」、ただただ主イエスという良いぶどうの木に、私たちという枝がつながっていること、ただこれだけである。どのようにして、主イエスとつながるのか、つながったら良いのか、人が主イエスと繋がるすべとは何か、その具体的な表れは、「祈り」であろう。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と主イエスは言われる。
ぶどうの栽培家の言葉をもう少し、「ぶどうの栽培は、正直、簡単ではありません。天候に振り回され、毎年『これでいいのか』と悩みます。それでも、少しずつ色づいていく房を見ると、毎日、心を奪われます。光を当てるために葉を間引いたり、袋を変えたり、反射シートを敷いたり。手間は、確かにかかります。でも、その分、できあがったぶどうには、作り手の時間と気持ちが、ちゃんと残ります。何を選ぶかは、生き方にも似ている。便利で、わかりやすくて、失敗しにくいものが選ばれる時代。それは、果物に限った話ではない気がします。効率のいい選択。無難な選択。間違えにくい選択。もちろん、それも大切です。でも、ときには少し不合理で手間がかかって、時間のかかるものを選ぶのも、また楽しい」(2026年1月21日「ぶどう日和」)。
この季節にぶどうは花を咲かせる。ぶどう作りにとっては忙しい時期が始まる。「父は今に至るまで働いておられる、わたしも働くのだ」と主イエスは言われた。そのみわざの中でわたしの今日もまた育まれ、生かされて行く。その働きを喜び、深く味わいたい。