「いましばらく」ヨハネによる福音書13章31~35節

物事には「きっかけ」というものがある。音楽家の黒岩英臣氏が、なぜ自分が指揮者になったのか、その経緯を語っている。12歳の頃、音大付属の音楽教室に通っており、ジュニア・オケの指揮をしていた兄貴分の人からこう言われたという。「その彼が私に話しかけてくれて、こう言ったのです。『黒岩君よお、おめえ勉強して、指揮科に来ねえか』。この一言こそは、私に決定的な影響を及ぼしたのです。言うほうも言う方ですが、その気になるほうもなる方かも知れません。ですが、私は蛮勇を奮ってその気になり、実際、プロの指揮者になったのでした」。この兄貴分の先輩こそ、後に世界のオザワと評されることになる、小澤征爾氏だったという(心のともしび「ある人の一言」)。「てなこと言われてその気になって」、しかもそれが実現する、人生とは何なのか、と感じさせられる。

4月15日は、「良い遺言の日」と称せられている。この国の弁護士会が命名したらしい。最近はそれに因む川柳が公に募集され、受賞作品が紹介されている。「あの世ともできたらいいねオンライン」、「AIに自分で書けと叱られる」、「遺言状書いたはいいがどこいった」、時代の趨勢を物語る句も多い。「遺言」というと、すぐに「遺産相続」というお金や不動産といったモノの遺贈の約束として理解されがちだが、「遺言」とは、文字通り、「後に遺す言葉」のことであり、その人がいなくなった後まで、その人の語った言葉がなおも残り続ける、そういう言葉そのもののことだろう。そして皆さん方は、自分の語ったどのような言葉が、周りの人の記憶に留まり、残り続けると思われるか。先の黒岩氏の想い出ではないが、ほんの些細な一言で、人生の方向が変わる、方向付けられる、ということがあるのか、と思わされる。語った当人は、それほど意識していない、忘れてしまったのかもしれないが。但し、ネガティブな言葉はやはりごめん被りたい。

今日の聖書個所は、主イエスの告別説教、遺言と呼びなわされている個所である。ここを皮切りに延々16章まで続き、17章は主イエスの「最期の祈り」、が置かれている。何と長大な遺言であろうか。なぜこんなにも長いのか。かつて樹木希林氏を配したキャッチ・コピー「死ぬときくらい、好きにさせてよ」、はこの国の人々の耳目と共感を集めたが、もうかれこれ10年程前になる。これに合わせて次のフレーズが添えられていた。「人は必ず死ぬというのに、長生きを叶える技術ばかりが進歩してなんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。死を疎むことなく、死を焦ることもなく、ひとつひとつの欲を手放して、身じまいをしていきたいと思うのです。人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい、それが、私の最後の欲なのです」。それでも人間は、どうしても「欲」からは離れられないものか。

ヨハネ福音書に伝えられる、主の最期の言葉が非常に長いのは、福音書の編集作業の結果である。最初、ヨハネが書いた時の文章はもっと簡潔だった。後にヨハネの弟子たちが、師であるヨハネの原文に増補・改訂を加えた。どうしても人間、何をするにも欲張りになる。何せ主の最期の言葉である。これも入れよう、あれも加えておこう。これも大切、あれも欠かせない。と言うわけで今のように長々としたものになったし、反面、文章がまっすぐに通じなくなってしまった。今日のところも、34~35節を飛ばして読めば、36節に素直に繋がる。

さて今日のテキスト、その直前、イスカリオテのユダが、最期の晩餐の後、主を裏切るために、外に出て行く。そこにヨハネは一言を記す。「時は夜であった」。福音書中にヨハネはこの一文を、何回か繰り返す。これは単に時刻を表そうとしたのではない。光がない時、全てが闇に閉ざされる時、暗黒、希望の光がない、目当てとするものがない。目標や目的が失われる、失意の時、失望の時、という象徴表現である。十字架を前にして、そういう暗闇の迎えるところで、主イエスは弟子たちに語られる。暗闇だ、絶望だと私たちはネガティブにとらえるが、そこでしか聞けない言葉、そこでしか味わえない恵みもあるのである。好調の時に、失せる命もあるし、失意の中で、病の中ですら輝く命もある。33節「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」このみ言葉は、主イエスの十字架を予告するものであるし。さらに主イエスの無残な死、そして埋葬が示唆されている。「その時、あなたがたはわたしを捜し求めるだろう」、失われて初めて、今まで慣れ親しんできたものの大切さに気づくのである。

皆さんは、大切なものを無くしてしまった時、どうするだろうか。ある人が「失せ物を探す秘訣」を伝授してくれている。1 すぐに探し始めない。2 探し物は必ず見つかると信じる。3 まず、お茶を飲んで冷静さを取り戻す。4 直感を信じる。5 最後に使ったところを思い出す。6 灯台下暗し、目の前を探してみる。10 探し物に呼びかけてみる。12 どうしても見つからないときは…諦める。しかし物ならば諦められるかもしれないが、親や兄弟、友人、先生、人もまた、去るものは日々に疎し、なのだろうか。しかし、私たちはもう一つの秘訣を教えられているのではないか。「向こうから呼びかけて来る」ということがある。

皆さんは主イエスの言葉をどう読んでいるか。「あなたがたわたしを探し求めるだろう。しかしあなたはわたしの行くところに、来ることはできない。捕らえられ十字架への歩みをたどる主に、弟子たちはついて行くことはできなかった。「あなたのために命を捨てる」と言い放ったペトロに、主は「鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないというだろう」と言われた。但し、臆病だから、気が小さいから、情けない輩だから、到底ついて行けないだろう、と主は言われているのではない。主が行かれるところは、私たちが信仰告白で語るように、「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架つけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座す」ことなのである。私たちは誰も、主イエスの行かれるところに行くことはできない。神のひとり子ではない、ただ人間に過ぎないことの、卑しさ、惨めさ、罪、弱さを謙虚に知り、受け止めねばならないだろう。しかし、使徒信条はさらに続く。「かしこより来たりて」。私たちは自分で主イエスのところに行くことはできない。どんなに頑張っても、地獄の底にまでついて行って、そこから遥か天上に駆け上がることなぞ、誰にもできはすまい。しかし主イエスの方から、私たちのもとにまたやって来られるのである。「生きている者と、死んだ者とを、さばき給う」。「さばく」とは、裁判での弁護人のように、私の横に、すぐ側に立たれる、という意味である。

33節「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」と主は言われる。「いましばらく」とはどういうことか。この語を辞書で引いて調べると1.長いとまでは言えないが、幾らかの時間、少しの間。例「只今、大変込み合っております、しばらくお待ちください」、案内の自動音声が流れ、延々と待たされる。このまだかまだか、が「しばらく」。

2.やや長い時間を隔てているさま。例「(卒業以来あっていない友人に)しばらくぶり、元気だったか、今度、飯でも食おうや」。おそらくその日はやって来ないだろう、というぐらいの時間。ギリシア語でも、何時間何分何秒という限定的な時間経過を指してはいない。この語が語られる背景には、当時の教会が人々から問われた問いが横たわっている。教会は「主イエスの再臨」を告げたのである。間もなくすれば、この世は終わる、終末を迎える。その時にはよみがえりの主イエスが、再び地上に現れて、私たちの前に立ち、この世を、私たちを裁くであろう。このように語れば、人々は必ず問うただろう「それは一体いつのことなのか」。「しばらくすれば」。今も教会はそれを語り続けているのだが。

最初に言及した黒岩氏の人生経験、自分の人生に決定的な働きをした言葉についての続きの文章、「私たちは、幼年期、少年期と過ごしながら、自分は将来何をやろうかと考えるようになります。しかし、何と言ってもまだ年端もいかないことなので、将来とは余りにも漠然としていて、これと思いを定められる人は、そう多くはないのではないかと思います。ところが、中には探している対象の方から、多分にボーッとしている本人の方へやって来るとでもいうべきめずらしいケースも、ある事はあると言わなければならないでしょう」。探している対象の方から、私の方にやって来る、そういう言葉がある、そういう働きかけがある、というのである。

34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。伝説によるとヨハネは他の使徒たちのように、殉教せずに百歳を越えるまでに天寿を全うしたといわれる。彼は十字架上の主イエスから、母マリアの後の世話を託される。おそらく、殉教に代わり、介護、看取りが彼の務めになったのだろう。彼もまた高齢となり、教会の仲間や弟子たちにいろいろ世話を受け、介助を受けつつ、生かされたことだろう。これは、ヨハネは教会の人々に誠実ごとに礼拝説教をしたが、最晩年になった時には、人々に抱え上げられ、他の人の力を借りて、ようやく壇上に上り、話す時には、もうこれしか語らなかったと伝えられている。そしてこれが、ヨハネによって主イエスの一番の、最後まで残り続けた主の遺言であったのである。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」「愛し合うならば、あなたがたは皆、わたしの弟子だ」。弟子とは師の後をついて行く者たちである。信仰者たちの歩みが何に、誰によるものか、皆が知るようになる。この「しばらく」の時を、私たちは生きるのである。