皆さんの子どもの頃の一番の想い出は何か。私は学校帰りの道草の想い出である。一年生に入学したクラスの黒板に、「道草をしない(食わない)」と注意書きがされていた記憶が残っている。するなと言われると却ってしたくなるもので、通学路が決められていても何のその、近所の家の子と畑の中、路地裏や裏道などいろいろ探索して帰ったものである。極めつけは、地下室か防空壕の跡なのか、ぽっかりと地面に入り口が開いて、階段が下に伸びている場所があり、途中まで降りてみては、探検ごっこしていた思い出が浮かんでくる。薄暗がりに、壊れた木の椅子が転がっていて、空き瓶や新聞紙が散らばっていた。何とも不気味であった。
「道草を食う」の語源は、馬が旅路で道端の草を食べてしまい、進行が遅延する喩えを言う。転じて、余計なことに罹り合って、本質的なことが後回しになるという、否定的なニュアンスの言い回しである。自然観察の楽しさを提唱するアウトドア・プロデューサーの長谷川雅和氏は、次のようなやり方を説いている。「いつもの歩くスピードの1/10で歩くこと。前後左右、遠くを見たり、近くを見たり、目線を色々な方向に動かすこと。時々立ち止まり、しゃがみ、じっくり観察すること。気になったらその”何か”に呼ばれてフラフラしてみること」。そのように「道草」を食うことにより、自然に生えている草木や、その周囲で活動している様々な生き物を注意深く観察することにつながり、思わぬ発見や驚き、喜びが味わえる、というのである。しかしこうした「観察」は、何もレクリエーションの方法だけに留まらず、人生を楽しく、喜びを持って生きるのに、欠かせないスキルや視点ではないだろうか。「道草によって、『道』の味がわかる」と河井隼雄氏も語るように、無駄とか無意味とか思える事柄の中に、人生の新しい発見、出会いが潜んでいるということである。
さて、今日の聖書個所は、モーセの召命、神との不思議な出会いを語る物語である。かつてエジプトにあって、奴隷の民ヘブライ人の子どもとして誕生したモーセであったが、ファラオの凶刃を恐れた両親、家族の機転によってナイル川に流されて、偶々とはいえファラオの娘に拾われ、エジプトの王子として成長することになる。ところがエジプト人の同胞を殺害したスキャンダルが公になり、アラビア半島の付け根、オアシスのあるミディアンの地に逃亡する。そこはエジプトを始めとする強権国家や周辺の衛星都市から引き揚げてきた「無法者たち」(この呼称は決して犯罪者という意味ではなく、権力者の法の支配を嫌って外に出た者、という意味であるが)、が吹き寄せられたように集まる地域だったとも言われている。さらにミディアンの地は、弟殺しのカインの末裔たち、ケニ人が住み着いた場所と伝えられ、ヤーウェ信仰は、当初、彼らによって信じられていた宗教だという見解がある。その地で運命の紆余曲折によって、祭司エトロの娘たちと出会い、娘のひとりツィポラと結婚し、息子ゲルショムも授かり、しばらくの間、羊飼いに身をやつして、静かで平穏な生活が繰り広げられる。モーセの生涯で、もっとも平穏な時代、と言えるかもしれない。ところがその静かな日常の中に、神の招きの御手は伸ばされるのである。実のところ、神との出会いはどのようになされるものなのか、モーセの物語は、非常に巧みに描いていると言えるだろう。
その発端は、彼が連れていた羊が、勝手に荒れ野の奥まで入って行ってしまい、それを追いかけて神の山ホレブに来たことによる。遊牧民にとって「家畜」は大切な財産であるばかりでなく、飼い主の生命を支えるすべてを提供する生活の基盤なのである。だからたとえ一匹でも、見失ったら徹底的に探しに行く。もっともこういう所に、飼い主の熟練さが現れるもので、任されている群れを見失ってしまうというのは、モーセがまだ未熟者ということであろう。但し「未熟」だからこそ味わえる体験もある。「牛に引かれて善光寺参り」という諺があるが、旧約の場合、「羊を追って神の山参り」である。未熟なおかげで、彼は神ヤーウェ、その名を「わたしはある、わたしはある、あってある者」という不可思議な名を持つ神に出会うことになる。
そもそも、この大いなる運命の転換、神との出会いを起こした発端は何か、繰り返し語られる小さな言葉がある。それは「道をそれて」、道草をする、脇道へ入る、自分の道を曲げて、というようなニュアンスの用語である。なぜ「道草をしよう」なぞと考えたのか、それは、2節以下「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう』。」長谷川氏の説く「気になったらその”何か”に呼ばれてフラフラしてみること」ではないのか。
「この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」、モーセが見たこの光景は、決して驚天動地のようなスペクタクルではない。極くささやかな、闇の中に小さな焚き火が燃えているくらいのものである。誰かがソロ・キャンプをしているのかという程度のものであろう。ところが、「いつまでも燃え尽きない」、神の招きの光、信仰の火というのはそういうものだろう。大きく燃え上がって、灼熱のように光り輝く、そんな大それたものだとしたら、そんなところに近づいたら、焼け死んでしまうではないか。偽りだから大きく見せ、燃え上がらせ、光り輝くようにあらわそうとするのである。真実ならば、そんなに派手に演出する必要はないだろう。教会の信仰の火は、勢いよくバチバチと盛んに燃え上がる猛火というより、「小さいが、いつまでも、燃え尽きない」という不思議な火なのである。この静かに照らす、燃え尽きない火のもとで、モーセは神に出会い、そしてみ言葉を受け、召命を与えられるのである。道草の中で、モーセは今まで思ってもみなかった、神の臨在を知るのである。「わたしは必ずあなたと共にいる」、どこにいても、どんな時にも、いつでもどこでも。道を逸れてばかりいる、道草の歩みの中にある私と、神は共に歩んでくださる。
主イエスの歩みは、あてどなく、いろいろな所をぐるぐる経巡るような、道草の旅である。飼い葉桶に誕生するその誕生の初めから、モーセも生命の危機を前にミディアンへ逃亡したのと同様に、ヘロデ大王の刃を避けるために、家族はエジプトへ逃避行を行う。そしてその公生涯は、弟子たちと共に、見知らぬ病気に悩む者、悪霊につかれたもの、貧しい人、やもめや子どもたちと出会い、ふれあい、深い愛のみわざで包まれたのである。主イエスはまさに「道草の人」であり、今も私たちに、道草の出会いの時を与えてくれる。主イエスと共に旅することで、私たちは思ってもみない不思議な、しかし温かな出会いを与えられるのである。