「まだ生きている」使徒言行録20章7~12節

雨が降り続き、しばらく肌寒い日々が続いたが、急に蒸し暑くなった。気温が高く、湿度も高いと夜の寝つきが浅くなる。すると昼にうとうと、皆さんは居眠りをすることがあるか。「居眠り」はどうも日本の文化らしい。学校の授業中に居眠りする日本の高校生の割合は45%で、日米中韓の4カ国で最多だったことが財団法人日本青少年研究所(東京)の調査で分かった。また日本に来た外国人がよくびっくりしているのが、電車や公共の場で居眠りしている人が多いこと。よく海外でニュースのネタになったり、電車で寝ている日本人の姿を動画撮影している外国人もいたりする。「居眠り大国日本」と評される。イギリス人の教授が日本人の居眠りについて書いた記事は特に面白い。「日本の会社のミーティングや国会では居眠りが認められています。」「居眠りは男らしい行動です。」「会社での立場が上の人と下の人は居眠りが出来ますが、中堅の社員は出来ません。」といった勘違いを紹介している。しかし、この国で居眠りが文化とも言えるくらい、日常の風景なのはどういう訳だと思われるか。少し考えてみるのも一興である。

7月7日の毎日新聞のコラムにこう記されていた。聖書によれば、イエスは生まれてほどなく、ユダヤ王ヘロデによる殺害計画を知った父ヨセフ、母マリアと共にベツレヘムからエジプトに逃れた。「イエスも難民だった」とされるゆえんだ。(中略)紛争や迫害のために故郷を追われた難民や国内避難民は昨年末に7000万人を突破した。国際移住機関(IOM)によると、他国への渡航中の死亡・行方不明者が5年連続で4000人を超す「難民危機」である。

歴史家の見解によると、20世紀は「難民の世紀」と命名されるだろうと言われた。ところが21世紀になって、さらに世界の難民の数は増え続け、命名の変更を余儀なくされるのではないか、とも論じられる。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のHPには、難民の生の声が伝えられている。小さな子どもを連れて故郷を逃れた一人の女性、「オパニの物語」と題された声が記されている。オパニの村が戦争と暴力に脅かされた時、彼女は娘とともに南スーダンからウガンダへ逃れました。これは、そんなオパニのストーリーです。戦闘がオパニの村を襲った時、オパニは娘のブレンダを連れて、スーツケース1つを手に祖父が住む近くの村へ逃れました。再び戦火が親子を襲うと、オパニは娘を抱え、徒歩で南スーダンを逃れざるを得なくなりました。常に攻撃される恐怖にさらされながら、親子は外で眠りました。オパニは娘とともに、安全を求め何日も歩き続けました。口にしたものは野生のキイチゴだけです。「私たちは木の下で寝ました。片目を開いたままで」とオパニは回想します。

「片目を開いたままで」眠った。最近、マスコミに「難民」についての報道が、なされなくなった。かつてはヨーロッパ中に難民があふれ、そこで生じている様々な深刻な問題が、毎日のように報道されていた。最近はどうか。もはやそれは過去の問題であるかのような姿勢である。つまり例えるなら、私たちは「居眠り」をしているのだ。「片目を開いたまま」で眠らざるを得ない人々の傍らで、「居眠り」をしているのである。

今日はまた使徒言行録からお話しする。この20章は使徒言行録の分水嶺とも言える章である。専門的には「われら章句」というが、この章から語り方、主語が変化する。それまでルカは「パウロたちは、彼らは」と第3者的に語ってきたが、ここに至って「わたしたちは」と記し始める。これはどういうことか。もっとも単純な理解は、「著者のルカも同じ場に立ち会っていた」ということである。確かに物語がよりリアルに、真に迫って記されているようにも見える。「われら資料」と呼ぶその最初に記される記事が、今日のテキストである。そして実に興味深い内容を含んでいる。

「週の初めの日」つまり日曜日のことである。ユダヤ教の安息日は土曜日であり、週の最後の日である。初代教会の人々は、主イエスの復活の日を記念して、ユダヤ教徒とは異なり日曜日に礼拝を守ったのである。ただ日曜日は休みの日ではない。一日の務め、労働がある日である。それをなし終えて、皆が教会に集まって来るのである。一日の疲れを抱えて、疲れ切った体を引きずって教会にやって来る人も多かったろう。それだけで礼拝にやって来るには内と外との戦いがあったと想像される。しかし、だからこそ、彼らは時に明け方まで、礼拝をおこなっていたという。夜明けまで賛美の歌声が響いていたことが伝えられている。

ある若者が、エウティコという名は、この事件によってずっと皆に記憶されることとなる。皆から「ああ君がかの居眠り青年か」と語り草になったろう。寝る子は育つというが、若者は眠いものだ。年を取るとどうして朝早く目が覚めるようになるのか。いつの間にか朝寝できなくなってしまった。さらにこの青年、3階の窓に腰を掛けてパウロの話を聞いていたというのである。1階は大勢の人でひしめいていたから、良く見えないので天井桟敷に上った、と推測されるが、若者らしいと言うか、若気の至りというか、若者は時に突飛な、怖いもの知らずの行動をとるものである。

パウロの話がやたら長かった。教会でも「今日はよく眠れた、説教が長かったから」とか「今日は説教が短かったから、眠れんやった」とか、評される。「パウロの話が長々と続くので」、これはルカの実感がこもっている。皆そう思うだろう。恐らくパウロは話の超長い人だったろう。ある高名な心理学者は、「説教の効果は、長さと反比例する」との偉大な法則を導いておられるが、パウロの場合は、説教の長さによって、若者のひとりの命を危機にさらしている。詳しくは分からないが、3階といっても現代建築とは高さが違うから、落ちたショックでしばらくの間、呼吸が止まってしまったのかもしれない。パウロが抱き起したので息を吹き返したのか。しかし、ここでパウロが口にしたとされる言葉は象徴的である。「騒ぐな、まだ生きている」。正確には原文に「まだ」という言葉はない。「彼の中に、彼の息(プシュケー)がある」。高い所から落ちて、それでも無事でよかったね、と言う言葉ではない。これは「ここにこそ命がある」という宣言である。

人々の集まる礼拝の部屋には、明るく温かな明かりが灯されている。これは当時としては非常に贅沢なことだったろう。そして礼拝とはパン裂きである。ともにひとつの家族として共にパンを食べるのである。さらに饒舌なパウロの長々した話ではあるが、主のみ言葉が語られ、聖書が解き明かされる。いわば光、暖かさを分かち合い、パンを分かち合い、み言葉を分かち合った。これが初代教会のすべてであり、まことであった。疲れた若者が、安心してぐっすり居眠りをしてしまうくらい、自分を手放して、ありのままで生かされている。パウロの「ここにこそ命がある」と言う叫びは、教会のもっとも本質を表した言葉ではなかったか。これ以上の安らぎがどこにあるだろうか。

礼拝は、居眠りができる場所、しかも我知らず三階から下に落ちてしまうほど、ぐっすり眠ってしまえるところ、とルカが教会について語るのは、実に興味深い。そしてその居眠りの中に「命がある」と告げられる。私たちの世界の向かうべき方向が、示唆されているのではないか。「片目を開けたままで」眠る、という七千万人以上の人々が世界に生きていることを心に刻みたい。せめて眠る時くらい、両目を閉じて、自分をまったく手放して、全てを委ねて眠りたいではないか。

今日のテキストの最後「大いに慰められた」という結びの言葉で終わっているが、これは直訳すれば「大きく呼びかけられた」という意味である。呼びかけられた、励まされた、その呼びかけや励ましによって、慰められた、ということである。常に神が大きく、親しく彼らに呼びかけてくださっているということである。かつても今も、それは変わりない。私のこと、あなたのこと、「忘れていないよ、大丈夫だ」と呼びかける神の言葉こそ、私たちの最も必要としている力ではないか。この青年の居眠りは、私たちの姿でもある。「ここに命がある」「生かされている」。ぼおとした居眠りの中でも神の命は働き、私たちは生かされるのである。

最初に紹介した「オパニの物語」は、このように続く。国境へ到着、UNHCRの登録センターに到着し、親子は診察を受けました。温かい食事、そして緊急のシェルターも提供されました。ウガンダ政府とUNHCRの援助により、オパニはインベピ居住地に1区画分の土地を得ました。そこで、オパニは生活再建をスタートさせます。この新しい生活によって親子ともども、二つの目を閉じてぐっすり眠ることができるようになっただろうか。

「居眠りもまた神の恵みの中にある」とはいうものの、礼拝中に大口を開けて眠るのはいかがなものか、と思うのは、説教者の人間としての性であろう。