「ためらわないで」使徒言行録11章4~18節

先日、何気なくテレビをつけてみたら、とある映画を放映していた。期待せずに一口含んだ粒あんだったが、途端に「うん?」とうなる。どら焼き屋の店長は驚いた。アルバイトの応募に訪れた高齢の女性が、自ら手作りし、置いていった「あん」である。既製品と全く異なる極上の味に、あん作りの熟練の腕前に驚かされる。映画「あん」(河瀬直美監督)のひとこまである。徳江があん作りを担当し、店は賑わうようになる。だがそれも一時、手の指が曲がったハンセン病患者だと、町に噂が流れ、客足は止まってしまう。40年も前に完治しているのにもかかわらずである。樹木希林さん演じる徳江が、寂しい笑みを浮かべ、静かに身を引いていく姿が忘れがたい。樹木さんの遺作と言ってもよい映画である。

学生時代、夏休みになると教会の有志と連れ立って、毎年、岡山県にある長島光明園家族教会を訪れた。国立ハンセン病療養所のある島である。光明園家族教会は、療養所の中にある日本基督教団の教会である。美しい青い海に囲まれた風光明媚な島には、簡易舗装されている狭い道が縦横に走り、時折そこを行き来する乗用車には、大抵ナンバープレートはついていなかった。道のそれぞれの角には、信号ではなく「オルゴール」が備え付けてあり、四六時中、かわいい音色が聞こえ、目の見えない道行く人に、行き先を教えていた。初めてこの島を訪れての第一印象は、「ここは日本ではない」という思いだった。どこの国でもない所。

本土と長島の間は、1988年(昭和63年)に長島大橋がかけられるまで、手漕ぎの渡し船が就航していた。この橋の覚書にはこう記されている。「長島と対岸の虫明を隔てる海はわずか30メートルしかありません。昭和6年3月、愛生園に初めての患者が収容されてからは、この水路は人間差別の障壁となりました。ハンセン病に決定的な治療方法が無かった頃の療養所は、絶対隔離を鉄則としており、個々に事情がある者も外出が許可されなかった為、逃走するものは、後を絶ちませんでした。その経路として、夜陰密かに監視の目をくぐり、この水路を越えていった者は少なくありません。しかし、潮の流れが非常に速い為、何人かはここで命を落としました」。

今日は使徒言行録11章からお話をする。この書物には初代教会が直面した諸問題が、いろいろに語られていて興味深いものがある。現代の教会が目の当たりにしている課題は、教会が歩みを始めたばかりのこの時代、すでに表れているのである。今日の個所ではユダヤ人と異邦人との間の関係が語られている。よくユダヤ人は、神に選ばれたという「選民」意識を持っていたから、律法を知らない異邦人、外国人を、罪人として、罪に汚れている者として位置づけ、親しく交流することはなかった、と説明される。一言で言えば「差別」していた、ということである。そして初代教会でも、ユダヤ人と異邦人という問題が、しきりに顔を覗かせていたのである。

この6月末に「G20」が大阪を会場に開催された。二十か国からの要人が一堂に会するとなると、一番の問題は何か、やはり食べること、なのである。生きている限り人間は食べる。食べる行為は、人間の最も生きる基本であるから、それを共にすることで、人は打ち解け理解し合い、親交を深めるのである。ところが食べるという行為程、それぞれの人間の個性や好みが現われる所も他にない。長い間の生活習慣、習俗、観念、宗教の違いによって、人や国柄によっては「食べてはいけないもの、不快感を抱く食べ物」がある。郷に入らば、郷に従えで、無理にでも食べろ、と強制はできない。ユダヤ教の「コーシェル」、イスラム教の「ハラール」等の食物規定を尊重する必要がある。さて何を供するか。メニューを考える人、調理する人は、恐ろしく神経をとがらせたはずである。もっともどこかの大統領は、専用機の中で、某ファストフードの昼食にご満悦だったらしいが。これなら楽である。

教会は「アガペ-の交わり」によって、即ち「共なる食事」によって、支えられていた。ところがユダヤ人の改宗者で、ユダヤ的傾向を強く持つ者が、ペトロの振る舞いを厳しく批判したというのである。3節「引用」、同じキリスト者と言えども、律法を知らない汚れた者たちと、食卓を共にするのはけしからん、というのである。しかし、これは教会の根幹を揺るがすものであった。教会は「礼拝」をする場所である。そして礼拝は、「共なる食事」なのである。そこでこの批判に応えて、ペトロは自らの不思議な体験を語る。

かつて幻の中で、天上から大きな包みのようなものが下りて来て、そこには様々な獣や鳥が入れられていた。声が聞こえる「ペトロよ、それらを屠って食べなさい」。するとペトロが言う「清くないもの、汚れたものを食べたことはありません」。旧約のレビ記に「食物規定」と題される戒めがある。食べてよい清い生き物、食べてはならない汚れた生き物、がそれぞれ分類されている。ここに例の「豚」が禁忌とされる文言が出て来る。なぜ「豚」を食べてはだめか。はっきりとは分からないが、おそらく「おいしいから」である。豚は大食いで、飼育に非常なコストがかかる。美味しい、しかし高い、この味を覚えると病みつきになり、身上を持ち崩す恐れがある。それで食べるのが禁じられた。

「聖」とか「清い」という観念は厄介である。人間は「対」にして物事を考える傾向がある。小学校の時の「反対語」の勉強である。「熱い」と「冷たい」、「賢い」と「愚かしい」、反対のものを並べて、事柄を明確にするのである。「聖」があるなら、「俗」がある。「清い」があるなら「汚れ」がある。「高貴な人」がいるなら「卑しい人」がいることになる。そしてそれは一体誰なのか。具体的に位置づけ、現実に当てはめようとするのである。

しかしこういう二分割の思考法は、人間を分断し、差別し、関係を引き裂く力となる。ユダヤ人と異邦人、清い人と汚れた人、という具合である。「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない」。ペトロに三度、告げられたみ言葉である。ペトロには三度が付きまとっている。聖書にも「仏の顔も三度」的発想がある。余程、彼は頑固な人間だったのだろう。実はペトロをはじめとする弟子たちは、主イエスからもっと強烈な言葉をいただいている。「何(どんなに汚れたもの)を食べたところで、トイレに行けば、すべて排泄される。しかし人間の中(心)から出て来るもの(差別)こそが人を貶める」(マルコによる福音書7章15節)。