「わが民を牧するのは」サムエル記下5章1~5節

教会暦では、この日曜日が一年の終わりの聖日、終末聖日である。この国の呼び方に従えば、大晦日と言えなくもない。もう次週は、「待降節(アドヴェント)第一聖日」、新しい年の始まりである。今日は、礼拝後、毎年恒例のクリスマスの飾り付けも行われる。イルミネーションの輝きに、今年もまた、道行く人も、クリスマスの近いことを知ることだろう。

この時期ともなると、そろそろ「この一年を振り返って」、と銘打った企画が繰り広げられ、この年に因むさまざまな事柄が話題にされる。皆さんにとって、何が今年一番の話題だろうか。今年の大事件や出来事、あるいは流行語等、何を思い浮かべるだろうか。「パーソン・オブ・ザ・イヤー(英語: Person of the Year)」という企画がある。アメリカのニュース雑誌「タイム」誌の編集部が、年1回、その年の「良くも悪くもその年の出来事に最も影響を与えた」人物(またはグループ、物など)を特集し、そのプロフィールを掲載することになっている。その号の表紙には、パーソン・オブ・ザ・イヤーの肖像が掲げられる。

この時期、今年の表紙の顔が誰になるか、いろいろ話題にもなるが、昨年21年の顔は、テスラ社のCEO、イーロン・マスク氏であった。エンゼルスの大谷選手も候補に上っていた。一昨年は、ジョー・バイデン大統領とカマラ・ハリス副大統領(初めての女性副大統領)。この企画が始まったのは、1927年に遡るが、その最初の顔は、『翼よ、あれが巴里の灯だ』で知られる大西洋無着陸横断飛行を成し遂げた、リチャード・リンドバーク氏である。やはり企画の性格上、政治家が多い、ヒトラー(38年)、スターリン(39年、42年)、チャーチル(40年)、ルーズベルト(41年)。他方、決して皆に名が知られた有名人とは言えない人々が取り上げられることもある。アメリカの中産階級(69年)、アメリカの女性達(75年)、平和をもたらそうとする人たち(93年)、善きサマリア人(慈善家)たち(05年)、抗議する人(世界各地で抗議デモに参加している)たち(11年)、という具合に無名だが世間に働きかけている人々も取り上げられている。

さて聖書には、有名無名に関わらず、「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に登場するような人物は事欠かないだろう。しかし、敢えて一人を選べ、と言われたなら、主イエスは別格として、誰の名前が挙がるだろうか。聖書の中の登場人物は、皆、神の経綸、ご計画の一端を担う人ばかりであるが、時には異邦人の王であっても、「主の僕」と称されることもある。しかし、そこは皆、血の通った人間なのである。アイドルではないが、人気のある人物、人気のない人物がいる。当然、人間だから、誰も完全無欠の人は登場しないし、皆、何かしら欠けや不完全さを抱えつつ、それでも皆、神に向かい合い、時に抗い。それでも神と共に歩んだ人々ばかりであるが。現代の人々の目から、キリスト者、あるいはユダヤ人から好意を持って受け止められる人物がある一方、嫌われる人物もあるのは致し方あるまい。聖書の時代からすでに、そのような好き嫌いの評価は為されていたようだ。

聖書の中で最も、好意的に受け止められる人物(好感度No1)は、今日のテキストの人物、ダビデである。これは昔も今も揺るがぬ定まった評価である。逆に、不人気度No1は、その子ソロモンなのである。すでに旧約の預言者も、彼をあまり買っておらず、非常に批判的にさえ見ている節がある。物心ともに恵まれた究極の栄華を極めたと言われるソロモンのど派手さに辟易し、あるいは羨望と妬み、が入り混じるのかもしれない。

今朝のテキストは、ダビデが「全イスラエルの王として油を注がれる」場面である。これまで彼は、ヘブロンを拠点にして、人々からユダの王として戴かれていた訳だが、ここに至ってイスラエルのすべてを統治する王として、推挙されたことになる。因みに、「油注ぎ」は、「王」あるいは「大祭司」がその職に就く時になされる儀式であり、「油を注がれた」その者は、「メシア」即ち「キリスト(救い主)」を称されたのである。但し、全イスラエル、12の部族からなるという、から推挙されるというのは、普通ではおよそ考えられないことなのである。どうしてか。

先ごろ、「東京新聞」にこのようなコラムが記されていた。「ユダヤ系移民が多い中東のイスラエルは一九四八年の建国以来、総選挙で単独過半数に達した政党がない。一院制の国会は党が得票を競う比例代表制のため議席が多党に分散し、政権樹立の連立交渉はよく難航する。移民の出身国は多様で、ユダヤ教の戒律に厳格な人もそうでない人も。党も左派、右派、中道、宗教政党、少数派アラブ人系など多彩だ。選挙後、連立交渉はおおむね一カ月以上はかかる。十年以上前の連立交渉でも閣僚ポストでもめ、『遅々としていて国民は怒らないのか』と地元の政治学者に聞くと『党を支持した人のため、いいポストを得る努力は当然。時間はかかる』と説かれた。民主主義の手続きに律義な国である。ユダヤ人は昔、各国の少数派として艱難辛苦(かんなんしんく)を味わった。議論好きも多いという。政権が不安定でも、少数派を切り捨てぬ制度がふさわしいのだろう(11月5日付「筆洗」)。現代のユダヤ人の「らしさ」を切り取った文章だが、古代のイスラエルでも、事情は全く同じだったということができる。

イスラエルを構成する12の部族は、決して一枚板ではない。もちろん同じ先祖をルーツに持つ近親感はあるのだが、「自分の天幕」(領分)に殊更こだわりを持つ人々の集合体であった。もし自分の仲間の部族の内、どれか一つ二つが、他から攻撃されて危機に陥れば、全部族が一致団結して、その危機に対処して共同戦線を張るが、平時は、他の部族のことについてはあまり干渉することなく、多様性を尊重するという、緩やかな結びつきの連合体であった。そういう多様な価値観を持つ人々が、今、全イスラエルをまとめて、統治する王としてダビデに即位することを求めたのである。やはり拠所ない事情、パレスチナの平安を維持するのに、強力なリーダーシップが必要になった、という切迫した事情があったことはいうまでもない。確かに今、襲い来る危機を乗り切り、平安をもたらし、そこに生きる人々に「安全と安心」を与えるのが、リーダーの一番の役目ではあろう。しかしそもそもリーダーの資質とは何なのであろう。かつて自分の権力を絶対なものとするために、笑うことも泣くことも禁じるという政策をとった指導者がいた。「泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ、笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ」。しかし、これで人間が保つはずはない。

イスラエルの全部族はダビデにこう語ったという。「見よ、わたしたちはあなたの骨肉でです」。原文もこの通りである。「骨」であり「肉」である、という表現は、創世記2章で、神がアダムを眠らせ、彼の肋骨を抜き取り、その骨から配偶者のエバを形づくったという故事に遡る。「骨肉」とは、思想とかイデオロギーとか理論といった、高尚で深淵だが、手に触れ難く、近寄りがたい権威ではなく、直に手で触れて、そのごつごつした骨の感触を確かめ、赤い血の通った肉の暖かさを、その掌に直に感じる、ということである。ダビデと私たちは、信念とか理念とか、あるいは損得勘定とかいう冷たいものによって、結ばれているのではなく、骨と肉の暖かさの中で、つまり生きる時も死ぬときも、最後までそのぬくもりを分かち合いつつ生きる間柄、という意味である。

このテキストは、主イエスの受肉の予型として読まれて来た経緯がある。神は人間に救いをもたらすのに、思想や理念や悟りというような、観念によってではなく「肉と骨」によって、つまり神の愛の具体的な暖かさによって、告知しようとされたというのである。主イエスは、この冷たい情けない人の世にお出でになられた。冷たく暗い世の中だからこそ、「骨肉」の温もりが必要なのである。人間の骨と肉をまとって、赤ん坊としてお生まれになった。赤ん坊を腕に抱いたならば、その温かさが伝わり、私たちの心と身体を温めるであろう。其れこそが神の救いのしるしである。救いは冷たさの中では決して生じない。

今日は教会の暦で、一年最後の礼拝の時と申し上げた。「終末礼拝」と呼ぶが、一年最後の日ばかりでなく、自身の生涯の終わりについても、思いめぐらす時である。こういう文章を読んだ。「年に1度の人間ドックの待合室、あっという間に1年が過ぎてしまった。中年期を迎え、最も戸惑うのは、過ぎゆく時間に、なすすべのないことだ。最近では毎日が金曜日のように感じる。指の間から時間が流れ落ちてゆくようだ。身体的なさまざまな老化を受け入れていく時期でもあり、体力の低下に私自身が一番驚いている。そればかりか感じ方の変化にも驚きの日々である。あんなに長く持て余していた一日が、気づけば終わっているようになり、長い夏休みも一瞬になった。確かに丁寧に日々を積み重ねてきたとは言いがたいが、いつのころからか内的時間が止まり、時間の経過についていけず、時の流れの速さに取り残されている。それがいつかは分からないが、必ず終わりが来る人生を、この先どう生きるのか、霜月のころ、思いふけっている。(11月15日付「南風」)

終末礼拝には、福音書の主イエスの公生涯の終わりのテキスト、十字架での死の場面を読む慣わしがある。今年は、ルカ福音書の23章が、指定の個所とされている。その終わりにはこう記されている。強盗の一人が言う42節「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。するとイエスは言われる「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと、一緒に楽園にいる」。このみ言葉を聞く時、まさに「骨肉の者」として主が共におられるということ、さらに最期の時にも、私の死を超えて、導かれるその温かさを心深く思う。