祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書7章24~30節

犬猫を飼う人は多い。少子化の影響で、子ども代わりになっている場合も多い。犬が家畜となったのは1万5000年前ごろ。人間と犬がともに埋葬された最古の遺跡は1万2000年前のもので、イスラエルで発掘されている。犬は集団生活をするため人に慣れやすく、狩猟の際には獲物を捕まえたり、追いかけたりさせるために家畜化したと考えられる。日本においても、狩猟で生活をしていた縄文人は犬をとても大切に扱っており、縄文早期の遺跡からは、丁寧に埋葬された犬の骨が見つかっている。日本人が犬と生活しだしたのは10000年以上前、狩猟で生活をしていた縄文人は、犬と暮らし、家族として扱っていたとされる。

聖書では犬はあまり登場しないし、出て来ても家犬ではなく、野犬を指していると思われる場合がほとんどである。アポクリファ(外典)の、マカベア書には、主人のお供として旅について行く犬の姿が語られている。これが唯一の好意的な記述と言ってもよい。小家畜飼育者であった聖書の民が、犬を飼育しなかったとは考えにくい。

しかし犬は、悪い意味の比喩として用いられるのが常である。「強欲、恥知らず、無知蒙昧、無礼」なことの譬えとして、「犬」が用いられる。パウロも、キリスト者に律法の厳守を迫る頑固なユダヤ主義者たちのことを、「あの犬ども」と呼んでいるが、「犬」に失礼である。おそらくパウロは犬を飼ったことがない。だからそんな譬えが使える。犬よりも人間の方が、余程「強欲、恥知らず」である。

主イエスも残念ながら、パウロと同じく、犬を軽蔑している。「聖なるものを犬にやるな。足で踏みにじり、向き直って噛みついてくる」。つまり「犬」に対してネガチィブなのが、ユダヤ的感性ということだろう。今日のテキストで、シリアの女が登場するが、おそらくこの女は、家に子犬がいて、子どもと一緒に生活していることに間違いはない。

さて、今日の個所は、福音書における「解釈の十字架」、難解な個所である。主イエスの言動が「内向き」だからである。シリアの女、つまり外国人の求めに対して冷淡であるから、主イエスのユダヤ人らしさがよく表れているとも言われる。自分たちユダヤ人を「子どもたち」と呼び、異邦人を「子犬」に喩えている。但し「パン」を何の喩えと見るかは、議論が分かれるところである。

この女が、子どもの病気の治癒を願ったのであるから、「パン」とは「病気の癒し、悪霊払い」の力、即ち「神の賜物」のことだと考えることができる。すると、相手が外国人だからと言っても、苦しんでいるのは罪のない小さな子どもである。いくらユダヤ人が、汚れた民の者とは付き合わない習慣だったとしても、冷淡に無視するような態度は「狭量」過ぎるのではないか。

なぜイエスは女の求めを拒絶するのかについて、こういう解釈がある。イエス運動の中心にあったのは、「病の癒し、悪霊払い」である。当時、異邦の世界でも、主イエスのようにいろいろな地域を巡り、「癒しのわざ」を行う巡回の集団が存在し、人々の求めに応えていた。中でもギリシャのヒポクラテスは有名で、「医学の祖」と伝えられるが、医療行為をするといっても、現代医学のそれとは異なり、呪術的宗教団体というべき集団である。

シリアあたりでは、特にアスクレピオス神が病気に霊験あらたか、ということで人気を博していたようだが、この神をまつる集団が各地を遍歴し、医療行為が行われていた。特徴は術者の持つ蛇の形をした杖と、クライエントのお供え物が鶏であることである。哲人ソクラテスの遺言に、「アスクレピオスに鶏一羽の借りがある、返しといてくれ」との言葉が見える。

集団というものは、どんなグループでも暗黙の了解のもと、あるいは駆け引きや交渉、さらには力づくで、自分のシマ、テリトリー、縄張りを形成し、既得権の範囲を定めるものである。シリアは外国であり、ユダヤではないから、縄張りの外である。もし主イエスがそこで大っぴらに活動したら、他の縄張り、利権を犯すことになり、必ず喧嘩や刃傷沙汰が生じる。この厄介ごとを恐れて、主イエスの一団は鳴りを潜めていたという訳である。主イエスの冷淡さも理解できるであろう。「だれにも知られたくない」との言葉に注目するなら、働くのに忙し過ぎ、疲労の極致にあったイエスの一団が、時に休息のために人から遠ざかりたい、政治家や芸能人、公人が時にお忍びで海外に休暇に出かけることに似ている。だから、「パン」を「ひとときの休息、安息」を指すと理解することもできるだろう。

そのお忍びを打ち破ったのが、この女である。現代の聖書学者の何人かは、このテキストを「イエス、女に言い負かされる」あるいは「イエス、女に論破される」という話だと主張する。この女の一言で、主イエスは自分の意識の限界を突き破られた、あるいは疲労の極致にあった心と身体が、回復させられた、というのである。止むことのない長時間労働、それによって蓄積される疲労は、「過労死」を生じさせる。現代的にいえば、過労が主イエスの心を閉じさせたのである。「子どもたちのパンを取って、子犬に投げてやるのは良くない」。女に対する冷淡な言葉に、それがよく表れている。しかし、女の一言で、実に主イエスの心が開かれる。「食卓の下の子犬も、子どもたちのパンくずはいただきます」。

このひと言が、主イエスの心を動かす。「それほど言うなら」は不正確な訳、「あなたの言葉のゆえに」訳しにくい文章だが、「その言葉の通りだ」という感動のこもったニュアンスである。どうしてこのひと言が、主の心、気持ちを変えさせたのか。どう思うか。

このひと言のリアルさは、小さな子どもと共にひと時を過ごし、生活、衣食住の面倒を見た人なら良く分かるだろう。さらに犬を飼ったことのある人ならなおさらである。一歳くらいの、ようやく自分の力で食べることができるようになったばかりの子ども、食べこぼしの量がすごい。食卓の下一面に、食べこぼしが散乱する。我が家では食卓の下に新聞紙を敷き詰めて、食事をさせた。もし家の中に犬を飼っていれば、すかさずにその食べこぼしをかすめ取るであろう。食事で、食べこぼす子どもの姿、尻尾を振りながら、虎視眈々をその食べこぼしを狙う子犬の姿、主イエスの心に、鮮やかなその光景が浮かんだことであろう。

かつて主イエスの実家でも同じだったのではないか。身近に弟妹達と暮らしていたイエスである。「ちゃんとこぼさずに食べるんですよ」という母の声が聞こえ、小さな弟妹達の食事の世話をしながら、家族で食卓を囲んだかもしれない。どこかで拾ってきた子犬が、食べこぼしを期待して足下に待ち構えている。かつての光景を鮮やかに思い起こしたかもしれない。神は、子どもも、子犬も、大きな恵みによって生命を与え、糧を与え、育もうとされている。ましてや、子どもが重い病気だという。神の愛はすべてに勝るではないか。「女よ、あなたの言う通りだ!」