祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書6章6b~13節

発明王エジソンがこんな言葉を残している。「最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は混乱のうちになされる」。孤独は得てして寂しいものだが、効用もあるということだろうか。ただ人が食事をするというだけの構成が、なぜか人気のドラマ、「孤独のグルメ」。「誰にもじゃまされず、気を使わずものを食べるという孤高の行為。この行為こそが現代人に平等に与えられた最高の癒やしと言えるのである」とナレーションが入る。この国だけでなく海外でも話題なのだという。

みんなで食事をすれば、おしゃべりもはずんで楽しいだろう。しかし、自分だけでじっくり味わいたい時もあるだろう。思えば「一人焼き肉」や「一人カラオケ」など、従来は大勢で楽しむことを、あえて1人で行うというのはどうか。人間関係が複雑化し、IT機器が発達した現代、孤独になって、人間関係のわずらわしさから解放されるのは、至高の贅沢なのかもしれない。最近、野山を一人きりで過ごす「ソロキャンプ」も話題となっている。タレントがネットで公開するなどで、静かなブームになっている。テントや食料を車に積み、だれにも気兼ねせず、好きなものを飲み、食べる。音楽を聴いても、絵を描いてもいい。夜は星を眺め、思考は宇宙を駆け巡る、ということだろうか。

「ひとりの価値、ひとりの楽しさ」について皆さんはどう考えるか。ひとりぼっちを楽しめるタイプか。どうも「ひとり」というと、「忍耐」とか「辛抱」、「孤高」といった試練に耐える的なイメージが、心に思い浮かぶ。それをあえて逆に取って、今は「楽しむ」ということが主張される、「おひとりさまの老後」という書物がベストセラーになる時代である。

今日の聖書個所は、非常に興味深いばかりでなく、聖書学において、初代教会の宣教が、実際どのように行われたのか、推定させる手掛かりとなる個所である。主イエスが12弟子を宣教に遣わす時に、指示したとされる事柄が記されている。「ミニマリズム」とか「ミニマリスト」という言葉がある。「衣食住」生きるに余計なものを持たずに、最低限のものだけで生きよう、という生活の仕方を志向する人々がいる。実際、下着を二枚だけ所有して、毎日一枚づつ洗って着用する人もいるそうだ。しかしイエスのミニマリズムはもっと徹底している。「杖一本のほか何も持たず」、「パンも袋も、金も持たず」、「下着も二枚は着ぬように」、まさに究極のシンプル生活である。

こんな徹底した、最低の必要以外をすべて削ぎ落したような生活など、無理だし、ナンセンスだと思うか。現代文明人ならばそう考えてもおかしくはない。しかし、現代でも「現金」をまったく、あるいはほとんど持たずに、また貯金、貯蓄を持たずに生活している人の割合は、世界全体で7割近くに上る。それでもこの徹底さは度が過ぎている。

「宣教のために派遣される」というのは、旅をする、ということである。よく、この国ほど治安が良く、安心して旅行できる国はないと言われる。海外旅行で、置き引きやすり、窃盗の憂き目を見た人の話は、枚挙に暇がない。自分のスーツケースを持ち去ろうとしている不届き者に注意をしたら、ずうずうしくも、返すからいくらかよこせ、と言われたという話も聞く。今でもよそものにとって、どこも旅は安全ではない。ましてや古代は、旅は「水杯」を交わして出で行くものであった。

「よきサマリヤ人の譬」で知られるように、路上(街道)は、常に追剥、強盗の出没する場所なのである。物を持っていたら、誰であれ襲われて身ぐるみはがされて、悪くすれば生命を取られる。命があるだけ儲けもの、である。だからこそ、最も安全なのは、ものをまったく持たぬことである。持たぬことがまるわかりの人間を、襲っても何の得にもならない。強盗もそこまで暇ではない。

私たちは、危害を受けるかもしれないからと、いろいろ防御、防衛する手段を講じようとする。相手に勝る力をもって、対峙すれば安全ではないか。ところが主イエスの方法は、まったく逆である。防御防衛、力の発揮以前に、その気にさせない、というやり方があるのではないか。その方法が安全かどうかはともかくとして、「安心」は与えるであろう。少なくとも相互に敵愾心は持ちようがない。相互に「安心感」を持ち居れば、遠くから来たよそ者に、一宿一飯の恵みを与えて、その見返りに珍しい外国の話も聞けよう、というものである。実際、初代教会において、主イエスの話を諸教会に伝えたのは、このような旅をする荒れ野の説教者、モノを持たず、ただ主イエスの伝承だけを携えて、異国を巡回した伝道者「荒れ野のラディカリスト」だった、という仮説を唱える聖書学者もいる。

ところが、主イエスの指示で興味深いのは、「二人ずつ組みにして」というところである。主イエスも、その生涯で、一人ぼっちで働きをなさったのは、最初の「荒れ野の誘惑」の場面くらいである。もっともそこにも「サタン」がいたのだが。主イエスの生涯は、「共なる」歩みであった。十字架の時にも、弟子たちは逃げたが、左右に強盗たちが、十字架に付けられていた。そして彼らに「共に楽園にいる」と約束された。

弟子たちの宣教の際も同じであった。ひとりでがんばるのではない。共にがんばることを、主は弟子に命じるのである。「二人」いることのありがたさ、たのもしさ(誤解だとしても)、心強さは確かにある。ひとりでは最高に頑張っても百点止まりである。二人なら百点もまた50点ずつ取れば良いことになる。

しかしこと「宣教」について、「二人」というのは、意味深長である。どんなに優れた人間でも、「ひとり」は危ういのである。いつのまにか、自分の力だけを信じるようになる。良くても悪くても、自分しか視野に入らないのである。宣教は、「神の宣教」であって、まず主イエスが働かれるのを、人は後追いをするのである。ひとりは主イエスの前を遮り、サタンとなる。共に働くときにのみ、主イエスの働きが、まさに現れる。

しかし聞く耳持たぬ人々に対して、こちらが誠心誠意ふるまうというのも、腹立たしいではないか、という我らこの世の衆生のために、主イエスはこう言われる。「そこを出てゆくとき、足のうらの埃を、払い落として行け」とは、せめてもの非暴力的抵抗の方法であろう。「わたしにもわたしの誇りがある」、それで少しは腹の虫もおさまるだろうか。主イエスのユーモアであろうか。