「主は心によって見る」サムエル記上16章1~13節

こういう話を聞いた。日本文化を学んでいるある外国人留学生、それぞれの国の「文化」を研究するのには、必ず具体的な題材が必要である。その点「映画」はうってつけの材料を提供してくれる。ある映画の中に、こういう台詞が出てきた。「まあ今夜はお前さんと、一杯やりながら、腹を割って話そうじゃないか」。いかにもこの国の映画に出てきそうな台詞である。ところが留学生は、恐る恐る先生にこう尋ねたという。「この国では、今もハラキリの習慣が残っているのですか」。この国の言葉には、今も身体のどこか一部分を、比喩として用いる表現、「身体のメタファー」が多く残っている。

ネットにこういう質問が投げかけられていた。「腹という言葉をつかうこと多いですよね。腹が立つ、太っ腹、腹に据えかねる、切腹、腹を割る、腹黒い、腹を決める・・・などなど、なぜ、腹なのでしょうか?」。皆さんはどう考えるだろうか。こんな答えが返されていた。諺や慣用表現に表れる『腹』は、そのまま『気持ち』を表しているからです。昔の人は、精神の源は人の身体の中央部分にあたる腹に存在すると考えていたので、人の気持ちを表す表現として『腹』が多用されたのだと思われます。武士が切腹したのも、腹に精神が宿っていると考えたからです」。

実はこの「精神の源は腹にある」という考え方は、この国、独自の観念ではなくて、古代の文化に普遍的な思考であったと見なされている。つまりこの国の言語は、古代的な感覚を非常に色濃く残しているのであり、特に沖縄には、その傾向が強いように思う。「この言葉が精神的な意味に使われる場合は、経験の蓄積、または経験の集大成としての自己、したがって容易にその中を人の眼に見せないものを指して「はら」というように思われる。「はらができてる」「はらが立つ」「はら黒い」といった表現はその意味をよく表しているといえるであろう」。(土居建郎『甘えの構造』)。

今日の聖書の個所、ダビデがまだ少年時代の頃の話である。今でもユダヤ人の間で最も人気がある登場人物は、ダビデに他ならない。年若い少年ダビデが、将来の全イスラエルの王として立てられる、そもそもの発端が語られている。預言者サムエルは、イスラエルの王としてふさわしい人物を捜すように、神から命じられる。1節「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」。その際に併せて、留意事項が示される。7節「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」。人間の判断基準は「見た目80%、いや90%」などと言われている。中身が大事と言いながら、見た目の良さに捕らわれるのである。だから仰々しく外側を飾り立てる。そして「外見の乱れは、心の乱れ」とか、分かったようなことを言い、さらに悪いことに「人は自分の見たいものしか見ようとしない」のである。聡明なサムエルですら、エッサイの8人もの息子の内、末っ子でまだ子どものダビデには、目を向けようともしない。実のところ、これが現実の人間の判断なのである。だから人の目を殊更に気にして一喜一憂するというのは、余り得策ではない。他人の評価は、がっかりさせられてあたりまえなのである。

ここでサムエルに語られる、神の言葉の中で、最も注目されるのは「主は心によって見る」というみ言葉である。単純に読めば「神は人間を外見ではなく、心を見ようとする」という意味だろうと私たちは考える。さすがに神は、人間と違う、心の中を見られるのか。心の有様で、判断されるのか。ところが新共同訳は「心によって見る」と幾分、ぎこちない訳し方をしている。口語訳では単純に「心を見る」となっていた。なぜ敢えてぎこちない訳文にしたのか。それはいわゆる「心を見る」、客観的に「心」を観察するというような単純な文章ではないことを、読者に伝えたいからである。他人には決してうかがい知ることの出来ない、はっきり見えない心の内を見るという、できるかできないかはともかくとして、容易ではないことを、示したいのである。

この文言を理解するために、エレミヤの言葉が非常に助けになる。この憂愁の預言者は次のようなみ言葉を語っている。非常にエレミヤらしい物言いである。「心(レーヴ)はすべてにまさって偽るもので、ひどく病んでいる。しかも誰もそれに気づいていない。主なるわたしは、ひとり一人の心を探り、はらわたを究める」(エレミヤ書17章9~10節)。

この文章からエレミヤの「心」についての洞察力の深さに感心する。私たちは「心」こそが私の真実の在りかだ、と考えている。外側はいくらでも取り繕うことができるし、飾りたて覆い隠すことができる。しかし心は正直であり、そこにこそ、ほんとうの私がある。ところが、心理学者の河井隼雄氏は言う「心うそつく、身体嘘つかない」。その通り、心は雄弁に嘘をつく。大丈夫でないのに、大丈夫と言い、うれしいのに悲しそうにするのも、妬みに燃えているのに、平静を装うのも、みな心の働きである。「人類、皆兄弟」と言った後に、口先も乾かない内に「戸締り用心、火の用心」と戒めるのである。どうも心とは素直に真っすぐに、できていないらしい。だから主イエスも、鋭く警鐘を鳴らしている。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである」(マタイ15章18~19節)。

そもそも私たちは「心」という訳語に惑わされているきらいがある。この「レーヴ」は元々の意味は「心臓」である。エレミヤの言葉にあるように「はらわた」と対にして語られることが多い。それは、「キルヤー」で本来「腎臓」を表している。つまり「レーブ」と「キルヤー」の2つ併せて「腹」そして「腹の中」を指すのである。「心」だと清らかな印象だが、「腹」となると途端に、生臭い、人間の本音、恥やら偽りやごまかし、裏切り等、隠しておきたい秘密の巣窟、というイメージに変わるではないか。「腹に一物」「腹黒い」「腹立たしい」「腹に据えかねる」の「腹」である。

確かに「心によって見る」という表現は、翻訳が難しい表現ではある。外からざっと観察するのではない。「神ははらわたを探る、究める」とエレミヤが言うように、誰かの腹の中に入って行って、その奥底までに分け入り、極みまで探索し、確かめる、のである。それと同時に、この「心によって」は、その持ち主の思い、感情、喜び、憂い、嘆きと自分の心をひとつにする、ひとつになる、ことが「心によって見る」という言葉に込められたニュアンスである。

あるジャーナリストがこう語っている。沖縄ご出身の方に、「ちむぐりさ」という言葉を教えて頂いたことがある。「肝苦りさ」と書く。肝が苦しい、と。単純にかわいそう、たいへんね、という意味ではなく、「あなたが悲しいと、私も悲しい」という共感の言葉なんだ、と。今欠けているのは、この「ちむぐりさ」という感覚なのかもしれない。(安田菜津紀)

この沖縄の言い回しである「ちむぐりさ」という表現は、「心によって見る」という今日のみ言葉にも通じている観がある。「神が心によって見る」とは、その人の心が、「良いか悪いか」、「善か悪か」、「嘘か真か」を識別するということではない。人間の心は、どこまで行っても、どちらかではない、どちらもなのである。主イエスは、そのどちらにも分け入って、私たちのほんとうをご覧になられる。そしてそのほんとうをご自分のものとしてくださる。私たちのほんとうと、一つになってくださる。

ほんとうのことをはっきり見ると、腰が据わる。腹が決まる。それが存在の根っこになるところがあるのではないか。「ほんとう」がどんなことでも構わない。小さなことでも、くだらないことでも、悪いことでも、ずるいことでも、どんなことでも構わないのではないか。そういったいろいろな「ほんとう」の上に、神が手を伸ばし、分け入ってくださる。ほんとうを共にしてくださる、それで私たちの生命は成り立っているのである。