祈祷会・聖書の学び ローマの信徒へ手紙9章30~10章4節

50才くらいから、ものに「つまずく」ようになった。それも大きな障害物ではなく、他愛のないごく低い凹凸に、足を取られるのである。時に足の小指をぶつけ、非常に痛い思いをすることがままある。原因は一言で言えば、「年のせい」、つまり加齢によるものである。運動不足、筋肉の衰え、食生活の変化等が原因なのだが、ものの本によれば、人間は、50才くらいから、足裏の形が変化するらしいのである。今までのように安定して地を踏めない、となると、歩み方、歩き方をも変えねばならないということか。心身共に、人生の岐路に立つのが、50代ということなのだろう。

ベルリン在住のある邦人がこんな話題を伝えている。「ドイツやヨーロッパの各地を歩くとよく目にする『つまずきの石』。10cm四方の真鍮のプレートに、名前、生まれた場所、亡くなった年と場所などが刻まれています。これはホロコーストの記憶の取り組みの一つで、その人物が収容所に移送される前に最後に住んでいた家の前に埋め込まれています。1993年、ベルリン出身のドイツ人芸術家、グンター・デムニヒが発案、実現したプロジェクトで、現在その数は7万個(2018年10月時点)にのぼります(NPO法人ホロコースト教育資料センター)」。発案者のデムニヒ氏は、この活動を次のように説明する。「ナチズムの歴史を風化させないために大きな記念碑は建てられていたが、それだけでは日常生活の中で常に記憶を維持していくことは難しいのではないか。そこでユダヤ人をはじめ、ナチス・ドイツの犠牲となった方々、一人ひとりを記念し、彼らが実際に住んでいた場所に『つまずきの石』を設置することを思い付いた」のだという。

人々が行き交う歩道にはめ込まれている小さなプレートは、実際に足を引っかけて転ぶほどのものではないにせよ、否が応でも歩く者の目に入る。何だろうとふと心に留める効果がある。いわば「心のつまずきの石」とでも言えようか。今もホロコーストに心を痛めている人は、これによって記憶を新たにするだろうし、極右の思想を持つ人は、これを嫌悪し、はがそうとすることもあるらしい。だからこそ「つまずき」なのであろう。

今日の個所で、パウロは「つまずきの石」を話題に、議論を展開している。神の選民のユダヤ人が義とされず、律法をもたない異邦人が、信仰によってかえって義とされるのはどうしてなのか、「つまずきの石」によって、説明しようとする。

聖書の世界で、建築資材の第一は、「石」である。「石」を積んで壁を作り、住居を作る。だから「大工」というと、私たちは木工業者を思い浮かべるが、彼処では「石工」である。主イエスの父親ヨセフは、「大工」だったというが、厳密には「石工」であったとの説明がなされる向きがあるが、「神殿」のような大規模な構築物は、それなりの石材の専門家によって作業が進められるだろうが、町や村の民家の建築では、大工は石でも土でも、木材でも、何でも使って建築を行ったことであろう。古代はそんなにきっちりと分業制では仕事はできない。

しかし、聖書の世界に住む人々にとって、建築材料としての石は、普通の素材だったから、不用な石材は、そこらあたりに投げ捨てられていることも多かっただろう。そのような半端な石材を用いて、小さな石垣やかまどを作ったり、子どもの遊具にすることも、日常的な事だったろう。つまり不用な石は、二重の意味合いを持っていたのである。一方では、そこらへんに捨てられているから、道を通る時に、それに「つまずく」障害物、邪魔者であり、他方、不用だからこそ、それを他の用途に生かして用いる、有用素材ともなりうるのである。

預言者は、まさにそういう二重性、逆説性に目を留め、そこに神の啓示の表れを見たのである。パウロが引用している旧約のみ言葉は、イザヤ書からのものである。まず8章14節「主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠となられる」。イザヤらしい非常に逆説的な文言である。主なる神は、「つまずきの石」の如く、信仰者に痛い目に合わせ、イスラエル北王国、ユダ王国を分断させ、一番の都エルサレムに住む人々を、どん底に突き落とす、というのである。しかもそれを為す当事者こそ、敵の王や軍勢ではなく、神ヤーウェなのである。そして28章16節「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない」。先のみ言葉で語られたように、人々の思わくや願い通りに機能しないゆえに、邪魔で不用なものとして捨てられた「つまずきの石」こそが、堅く据えられた隅の礎石になるのだという。「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。(詩118編22~23節)」。

パウロもまた、旧約以来、聖書の世界に住む人々にとっての日常の風景でもある、「つまずきの石」の喩えを用いて、神の救済のみわざを語るのである。なぜ律法を与えられた選民であるユダヤ人が、この「石」につまずき、救いに入れられず、神の救いの埒外にいるはずの異邦人が、この「石」を「礎」として救いに入れられるのか、すべてはこの「つまずきの石」故なのである。

パウロにとって「つまずきの石」とは、まさにユダヤ人によって十字架に付けられた、主イエス・キリストに他ならない。そのみ言葉は、ユダヤ人をつまずかせ、邪魔で不用な石として捨てられたのが、主イエスである。しかし、ユダヤ人に蔑視された異邦人は、この石を信仰の土台として、救いの道が開かれたのである。どうしてこのような逆説が生じるのか。

10章2節以下「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」。ユダヤ人は信仰において熱心であり、真面目であった。だから自分の力で「義」を達成し、獲得しようとしたのである。即ち自分の方から、神に向かおうとした。ところが人間の足は、天に駆け上り、天を究める力はなく、そんなことをすれば、地にもんどり落ち、ひっくり返るのである。だから神の独り子、主イエスが、私たちが足を置く、この地上にお出でくださり、共に生きて下さった。「これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと」。つまずいてこそ知る、神の恵みである。