「何の役にも」 ヨハネによる福音書6章1~15節

私は、家内から度々注意される。「あなたは謝らない、ごめんなさいが言えない」。子どもへの小言のようで聊かむっとするが、「そうだな」と思う。「間違い」を認めるのは、そして「謝る」のは、ささいなことでも大変である。

この町出身のクリスチャン詩人、八木重吉の作品に、「わたしの まちがいだった」という詩がある。僅か三行の言葉が連ねられている。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」。重い病気を抱え、家族思いの詩人が、時には、このような感情の激しい突出を持っていたことに、改めて思いを深くする。家族にか、友人にか、あるいは世の中にか、神にか、我を張って、激しく主張するか何かしたのだろう。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」。

ある有名な現代詩人が、この小さな作品に非常に心動かされたのだろう、「その息遣いが聞こえる」とまで告白して、応答と呼ぶべき自分の心を詠んだ人がいる。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる/そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)/そんなにも深く自分の間違いが/腑に落ちたことが私にあったか/草に座れないから/まわりはコンクリートしかないから/私は自分の間違いを知ることができない/たったひとつでも間違いに気づいたら/すべてがいちどきに瓦解しかねない/椅子に座って私はぼんやりそう思う/私の間違いじゃないあなたの間違いだ/あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ/みんなが間違っていれば誰も気づかない/草に座れぬまま私は死ぬのだ/間違ったまま私は死ぬのだ/間違いを探しあぐねて」。

ある意味では、この国に住む私たちの心の有り様を、切り取ったような詩である。「私の間違いじゃないあなたの間違いだ/あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ/みんなが間違っていれば誰も気づかない/間違ったまま私は死ぬのだ」。いつまでも「間違い」に向かい合わなまま、消えてゆく、というのである。それは「草に座れないから、草に座れぬまま」だからだと「草」が繰り返される。谷川氏は、草に強く意識を集中している。周りには草がなく、コンクリートしかない、と詩人は言う。この「草」は、そして「コンクリート」は隠喩、もののたとえである。皆さんは、何を指し示していると考えるだろうか。

今日はヨハネ福音書の「五千人の給食物語」を取り上げる。この話も、4つの福音書すべてに収められている、ということは、初代教会にとって、非常に重要な伝承とみなされた、ということである。「大勢の人が、主イエスと共に、食事をする」、これは教会の本質を象徴的に語る風景であろうし、また来るべき神の国、天国のヴィジョンでもあったのだろう。教会は、神の国の食事、宴会を(主イエスは、神の国の有様を、神の盛大な大宴会に喩えた)、この世で、先取りしているのである、と。

最初に、二人の詩人の「草」を巡ることばを紹介した。今年は暖かい冬で、庭の雑草もいつもより早く、息を吹き返し、新しいみどりの色を早くも取り戻している。なぜこのテキストに、「草」の話題が関連するのか。それは文中に「草」が記述され、重要な役割を担っていると考えるからである。10節「イエスは『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた」。皆さんはこのみ言葉をどう読むだろうか。そりゃ、石ころだらけで、ごつごつした石の上では、落ち着いて食事などできはしないし、だいいち寛げないし、服も汚れるではないか、ということだろうか。確かにピクニックのように、草の上で弁当を拡げ食べるのは、気持ちよく、清々しいものだ。涼やかな風の吹く中で、大勢の人と共にご飯を食べる、というのは何と幸であろうか。しかしなぜ、福音書記者は、「草の上に座る」ことにこだわったのであろうか。ルカ以外の福音書記者は、皆、人々が草の上に座ったことを伝えている。

ヨハネはここで、旧約のあるみ言葉、非常に有名な詩編の言葉を思い起こしているのであろう。詩23編「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い3魂を生き返らせてくださる。5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。6命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う」。ダビデの作とされている最も有名な章句である。この時ダビデは、敵に追いかけられ、命を狙われている。絶体絶命というくらいに、追い詰められている。そこで詠われた詩であるという。生命が追い詰められているところで、神は何をなさるのか。普通は、危機を取り除いて下さい、敵をやっつけてください、救い出していください、というところであろう。ところが詩人は、「神は、戦いのさ中、困難の中、青草の原に休ませ」、「苦しめる者を前に、食卓を整えて下さる」というのである。戦いを取り去られたり、敵を滅ぼしたりするのではなく、「青草の原、食卓」、つまり私が生きるために必要なもの、なくてならぬものを、ちゃんと準備してくださる、というのである。

「草の多い所に座る」、これは主に連なる人々を、羊のように見なしている、ということであろう。詩23編の詩人も、「主は我が羊飼い」と告白し、自分が主の羊であることを自覚している。そのように、主イエスは私たちの羊飼いであって、私たちをいつも緑の青草に導いてくださる、というのであろう。人里離れたところ、海の向こうの辺境の地に自分はいるかもしれない。あるいは苦しめる者を前にしているかもしれない、死の陰の谷を歩むかもしれない。しかし主イエスは必ずや、私たちを青草の上に導いて下さるのである。

八木重吉は「わたしの まちがい だった/草にすわれば/それが分かる」と詠った。なぜ「草の上」なのだろう。今日のテキストで、「草」が語られるのは、主イエスのみ言葉「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」に対して、弟子たちの応答の直後に記されていることに注意したい。7節フィリポの応答「引用」、彼は「足りない」と主張した。そして9節アンデレの応答「何の役にも立たないでしょう」。「足りない、役に立たない」、という事態への認識は、おどろくほど現代的である。この二つの事柄を巡って、私たちの世界は回っていると言っても過言ではない。経済成長のためには、欲望をあおる必要がある。「足りない、足りない」と始終、思わせることが、発展を促すというのである。だからいつも「人が足りない、お金が足りない、時間が足りない」いつも走り回っているではないか。

そして「役に立たない」、すべて何かの、誰かの役に立つことで、人や自分の価値を判断しようとする。どれだけ生産性があるか、経済効果があるか、人の耳目を集めるか。

アンデレが「役に立たない」と言ったのは、子どもが持ってきた「五つのパンと二匹の魚」に対してである。おそらくは、母親がわが子のために持たせてやった、ささやかな弁当である。この子どもは、その弁当を差し出したのだ。「みんなで食べよう」と思って。それを弟子たちは、数の問題としか感じることができなかった、「何の訳にも立たないでしょう」。これこそ私たちの、最大の間違いである。私たちはコンクリートの上ではなく草の上で、何が間違っているのか、どこが間違っているのか、何がまことの幸いか、喜びか、満足かを深く味わうことになるのである。

今日はもうひとつ歌を紹介したい。歌人の伊藤一彦さんに次の一首がある。〈雨に負け 風にも負けつつ生きてゐる 柔らかき草 ひとを坐(すわ)らす〉。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」というのもたくましく頼りがいのある生き方にも思うが、いささか気負い過ぎ、硬すぎ、頑張りすぎの気がする。柔らかな草は、雨にやられ、風に倒れる。しかし柔らかく弱々しいからこそ、草は、時として、人を休ませ、慰める。主イエスの周りに集まった、腹をすかせた五千人の人々、苦しめる者を前にした詩編詩人、そして病に悩んだ八木重吉は、いずれも、この草の上に休み、慰めを得たのである。そしてこの国の住人は、コンクリートの上にではなく、草の上に座って、思うべきではないのか。