9月を迎えた、未だ残暑厳しい中にあるが、「目にはさやかに見えねども、風の音にぞ驚かれぬる」と古人が歌ったように、「見えない」中に次の時は備えられるのであろう。ある地方紙にこうした記事が載っていた。「友人は2023年12月に母を亡くした。その通夜の席で、中座しなければならないほどの体調不良に見舞われる。年が明けて受診すると『冠状動脈狭窄(きょうさく)』と診断された。カテーテル手術を3度受け、命拾いしたという。同窓会の席でそう語りながら涙ぐむ。理由は聞かなくても分かる。母親が助けてくれた命ではないか―。通夜の席で自分を見送る子に、母が言葉にはできない最後のメッセージを送った。それほど信心深くないが、これを偶然で済ますことはできないとも思う」(8月13日付「有明抄」)。この記事はごく一般紙(宗教新聞ではない)に録された文章である。夏のお盆時期ということもあろう、この国の精神性の発露とも言えるだろう。この国にはこうした感覚がまだ残り続けている。引用をもう少し続けたい。
「程度の差はあれ、誰だって一度くらい、命拾いしたと思える経験はあるだろう。その時を振り返り、『見えない力に守られている』と感じたことはないだろうか。アクセルとブレーキ。これがうまく働く時と働かない時で人生の明暗が分かれることがある。誰かから背中を押されるように挑戦できた時、あるいは勇気を蛮勇と思い直して踏みとどまった時、好結果が得られたりする。そんな時、見えない力を思う」。
「見えない力」、これは既成の宗教如何を問わず、時代や国や文化を問わず、人間の持つ極めて普遍的な感覚なのかもしれない。宗教性というものの根源と言ってもいいだろう。こういう感覚がある限り、「見えない力」というところで、私たちは理解や共感、あるいは和解、平和を形づくっていけるかもしれない。では私たちにとって、「見えない力」とは何をもってそういうのか。
今日はローマ書8章から話をする。この個所は、パウロらしい主張がよく表れている文脈と言えるだろう。彼自身の人生観、あるいは人生経験が豊かに反映されているのを見て取れるのではないか。キイワードは、繰り返し語られる一つの用語である。「うめく」、あるいは「うめき」。この用語は、日本語で「う~」と獣が唸るような声を表す音と、「めく」という接尾語「(音を)発する」という言葉が合わさって生まれた言葉だという。パウロが用いているギリシア語も、ほぼ同様な意味合いで使われるが、もう少し具体的に、「はげしい痛みで、苦しみもだえる」ともニュアンスを生かして訳すことができる。文語訳は「共に嘆き、ともに苦しむ」と訳出している。
この用語は実にパウロの生活体験が裏打ちされている、と申し上げたが、それは、彼がどのような種類のものかはよく分からないが、ある深刻な病気を抱えており、それで度々、苦しめられて、教会の仕事にも支障となるほどであったということである。彼が「肉体のとげ」と呼ぶように、時に激しい痛みに襲われたらしい。その病が嵩じると、ただ「うううう」と苦しいうめき声を上げざるを得ず、ひたすら耐えるしかなかった。いわば「言葉」にならない「ことば」と言えるだろう。「肉のとげ」と表現しているように、しばしば刺し貫かれるような痛みが彼を襲ったのであろう。
病の耐えがたい痛みによって、職務にも支障をきたし、責任を負う教会の働きをも妨げる事態になったことで、彼は一方で教会員たちに失望を与え、がっかりさせることも多分にあったようだ。いつも教会は問題のない場所ではなく、問題だらけだから、すぐに駆け付けて欲しいと求められることもあっただろう、繰り返し、「すぐに訪問する、間もなく行く」と約束しておきながら、実行できないでいる。教会員ばかりか、パウロ自身にとっても、忸怩たる思いだろう。ところが、彼が病に悩み、どうにもできずただ「うめく」しかない所で、成されたことがある。訪問できないから、彼は仕方なく、別の手段を使った。それは手紙を書き送るというやり方で、訪問できないことの対処としたのである。ひとつことで行き詰まり、道が閉ざされれば、また別の道を開いてくださるのが神である。そして痛みの中、うめきながら書き送った言葉によって、教会の人々が失望の中で勇気づけられ、このうめきつつ歩む使徒パウロと、うめきをも共にしたのである。これが教会の人間関係というものだろう。
この使徒の書き送った数々の手紙が、新約には数多く収められているのだが、もし彼が頑健であって、病知らずであったなら、こんなにも長い手紙を書き記さなかったはずである。病気のおかげで私たちは二千年を隔てて、初代教会の生の声、いさかい、いがみ合い、妬み、涙、回復、そして、喜び等々、まさにパウロを始め、教会の人々の「うめき」を今に聞くことができるのである。その背景には「病」のうめきがあったということに、深く感慨を覚えるのである。「病まなければ捧げられない祈りがある」と語った信仰者があるが、最初の新聞コラムではないが、「病気」というものは、確かに人生の桎梏ではあるが、他方「うめき」ゆえに魂に深みが与えられる、という他にはない役割があるのだろう。
22節以下「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。ここでパウロは「共にうめく」という表現を用いているが、これはただ一語の単語で、非常にまれな用語である。全て生きとし生けるものが、皆、うめいている。人間ももろもろの動物も、この世界のすべてがうめきの中にある。そしてキリストによって救われるキリスト者も同じである。主に救われた者は、もはや痛みもなく、悩みもなく、困難もなく生きているのでない。やはり皆ともに同じように、うめきながら自分の人生の道をたどるのである。
ところがパウロは、この「うめき」を言い換えて、「産みの苦しみ」という言い方をもしている。「産みの苦しみ」、それはむやみやたらな無益な痛みではない。大変な苦痛であるが、その先に新しい生命が生まれて来るという「希望のうめき」なのである。だから24節「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。うめきは希望をもたらす、希望に変わる、だから忍耐できるのだ、と。
「うめき」を通しての希望について、パウロは次の段落で「祈り」についてさらに論を展開するのである。「うめき」、痛みから発せられる言葉にならない「ことば」は、ただ空しく中空に消えて行くのではなく、それを「祈り」として聴いてくださり、それを神のみ下にまで引き上げてくださる「見えない力」があるという。
この国で教鞭をとられたこともあったドイツの神学者エミール・ブルンナーは、こんな逸話を語っている、「間違った(自分勝手な)祈りをしても、大丈夫、神は、本当の必要を聞き分けて下さる」のであると。 ある夜、この神学者が、5 才になる子どもの部屋の前を通りかかると、部屋からぼそぼそ声が聞こえてくる。お祈りの声、覚えたばかりの祈りをしているようだ。耳を澄ますと、「abcdefg~yz」、何度か繰り返している。しばくして祈りが終わったようだ。父親は、そっと部屋に入って、その不思議な祈りの意味を尋ねた。彼女は、こう答えたという。「神様は、本当に頭がいいお方なのよ、私が何を祈っていいか分からない先から、私に必要なものを与えて 下さる方よ。だから、アルファベットをとなえただけで、きっと、わかってくれるわ。」
この国のある中学生がこんな経験を語っていた、「先生、私、友だちが欲しい」――誰もいない放課後の教室で、級友のか細い悲鳴、誰もいない教室で、級友のひとりが先生にそう悩みを訴えているのを、ふと外の廊下で耳にした、級友のうめきを偶然聞いたその生徒さんはどうしたか、次の朝、その子に「もうすぐテストだね」と何気なく声をかけた。その生徒さんは心に「私の手の届くところだけでも笑顔を増やしたい」と思って声を掛けたと言ったそうである。「友だちが欲しい」という「うめき」、つまり「まことの思い」を、神さまは聞かれる。そしてどのようにその「うめき」を、祈りとしてみもとに引き上げられるかを、知らされるような話である。
神は「うめき」を聞かれる方である。主イエスが十字架に発せられたことばは、すべて「うめき」である。「エリ エリ レマ サバクタニ」は、私たちが人生において口にするあらゆる「うめき」をひとつに言い表すものである。つまるところ「うめき」は、神が聞いて下さらない、その嘆きの中に発せられる。私たちとひとつになって「うめく」主イエスがおられる。そしてそのうめきを確かに聞かれる「かくれた力」がここにある。