イソップ物語中に有名な『ウサギとカメ』の話がある。ある人からこんな質問を投げかけられた。「どうしてウサギはカメに負けたのか。カメはウサギに勝ったのか、その理由は何か」。ウサギは油断して昼寝をしてしまった。その間、カメはコツコツと歩みを進めて、ウサギを追い抜いた。「油断大敵」とか、「地道な努力」がその理由か。しかしそうではない、という。では、いったい何なのか。
その人によれば、ウサギとカメでは、「見ているところが違った」のであると。ウサギは何を見ていたのか。ウサギは、カメを見ていた。だから、ノロノロと歩くカメに、油断をした。対するカメが見ていたものは、「目的地」である。カメがウサギを見ていたら、昼寝をしているウサギを見て、自分も休んでしまったかもしれない。ところが、カメはそうしなかった。カメはゴールを見ていたから、歩みは遅かったけれど、足の速いウサギに勝てた。「見ているところが違った」から、この結果が生まれたと言える。
進むべき方向、場所を見ずに、隣ばかり、他人や周囲ばかりを見てしまう、ここに私たちの一番の問題があると言えるだろう。さらに、もっと大事なことがある。それは、「目的地は何か」、あなたにとってそれが果たしてちゃんとあるのか、ということである。それが定められていないのに、いったい、どこに向かおうとしているのか。例えば、人生の目的地などこなのか。人生は大海原に漕ぎ出す船のようなものだ、と。ゴールがないとはつまり、大海原に出るのに寄港地が決まっていない、ということ。寄港地の決まっていない船は、いったいどこに向かうのか。行くべき港がない。これではただ航海(後悔)するばかりである。
この聖日から、今年の「アドヴェント(待降節)」が始まった。この期間は、主イエスのご降誕を待ち望む時であるが、長く救い主を待望した旧約の人々の心に思いを馳せ、さらにキリストの到来に至るまでの、神の救いのプロセスを想起する意味合いがある。いろいろな旧約のテキストが取り上げられるが、やはり未来と希望のみ言葉を告げた第二イザヤ、捕囚期の無名の預言者、の語った神の言葉が、その主眼となるであろう。
今日の聖書個所に目を向けると、第一印象として、聞く人を元気づけようとする言葉、勇気を奮い起こそうとする言葉が連ねられていることに気づく。4節「わたしは瞬く間に
わたしの裁きをすべての人の光として輝かす」、7節「人に嘲られることを恐れるな。
ののしられてもおののくな」、9節「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに/遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは/あなたではなかったか」。この力ある言葉が投げかけられている理由は、11節から読み取れる「主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る」。
捕囚に会い、半世紀という長い間、異国の町バビロンに暮らすユダヤの民が、故郷の町シオン(エルサレム)に帰って行く、というのである。それも「喜びと楽しみ」を頭に冠のように戴きながら、故郷に帰還する、「志を果たして、いつの日に帰らん」という懐かしい歌の如くである。ところが、どうして殊更にこの預言者は、民の心をこれほど鼓舞する言葉を語らねばならないのだろうか。祖国を滅ぼされ、無理やり故郷から引きはがされて、異国のバビロンに連れて来られたのである。既に大きな喜びを心に持つ人に、しきりに励ましの言葉を語るのは、当を得ていないと言えるだろう。つまり、これほど強い言葉で励まさねばならないのは、人々の心が消沈し、大きな不安と怖れの中にあるからなのである。
ペルシャ王キュロスは、ユダの人々を捕囚にしたバビロニア帝国を滅ぼし、紀元前538年、あるいは翌年に「キュロスの勅令」を発し、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、バビロニアにより強制移住させられた諸民族を解放した。ペルシャは、被征服諸民族に対して寛大な統治を行ったのである。解放令によって、半世紀もの間、異国に暮らした人々が、今こそ自由を得、懐かしい故郷に帰れる、というのである。しかし、ユダヤの人々は喜んでいない。どうしてか。
ひとつは、かの故郷は、もはや「山はあおき故郷、水は清き故郷」ではない。50年前、聖書の町々、特にエルサレムは徹底的に破壊され、焼き尽くされて、廃墟のまま、捨て置かれ、放られているのである。麗しかった都が、今では「野獣と地を這うものとか徘徊する場所」となっている、ことをバビロンの人々は耳にしているのである。もうひとつは、半世紀もの間、異教のバビロンで兎にも角にも、生計を営んで来たのである。バビロン人から「よそ者」として屈辱を受けることも、度々あったが、今まで何とか生き抜いてきたのである。決して楽とは言えないが、今の生活をまったく捨てて、「野獣と野の獣とか徘徊する荒れ野」のような場所に戻り、また一から始めるのか。
6節「天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果て」この有様は、まるでエルサレムの惨状ではないか。今の故郷の偽らざる姿ではないか。「それでもそんなところに戻れ」と言うのか。そのように嘆く人々に、預言者は語る、6節「わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。わたしの恵みの業はとこしえに続き/わたしの救いは代々に永らえる」。
ここで預言者は、イスラエルへの、神の救いのみわざを思い起こすようにと、かつての出来事、それはイスラエルの原点とも言える出来事なのである。10節「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ/深い海の底に道を開いて/贖われた人々を通らせたのは/あなたではなかったか」。これはあの出エジプトのクライマックスの出来事である。意気揚々と奴隷の地、苦しみの地、エジプトを後にし、やれ嬉しや、と喜んでいるイスラエルの人々の後ろから、エジプトの軍勢が攻め寄せて来る。前には紅海が拡がり、後ろには剣である。どっちに行こうにも行き詰まりである。今の時代、もっとも私たちの心を縛り付け、重苦しくしているのが、この「行き詰まり感」、「閉塞感」であろう。どっちに行こうにも、まるで光が見えてこない。踏み出したらどうなるか分からない、それなら今のままでいる方がましか、となる。そう言う私たちに、神はみ言葉を告げるのである。「わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす」。その光とは何か、「深い海の底に道を開いて」と言われる。神の開かれる道がある。それは「深い海の底に開かれる道」だという。人間が思ってもみない、想像すらできない、気が付かない所に、とんでもないという方法で、神は開かれるというのである。神の独り子、主イエスが、ナザレの大工の息子として、母マリアより生まれ、人々の間に生き、最後には十字架に付けられて、無残にも亡くなられた。しかしそこから神は、実に私たちの救いの道を、開かれたのである。
こういう文章を読んだ。「ウミガメがふ化する瞬間に立ち会ったことがある。たくさんの子ガメが砂から飛び出し、海に向かって前進する。生まれたばかりの小さな命が必死に生きようとする姿は感動する。砂から出た子ガメは、白波に反射するわずかな光を頼りに海を目指すという。街灯など人工的な光があると向かうべき場所を見失う。人間がつくり出す環境の変化が生命を脅かすこともある(11月20日「金口木舌」)。
「白波に反射するわずかなひかり」を見て、赤ちゃんガメは、行くべき場所を見出すのである。しかしそんなところにも、小さくかすかではあるが、神は光を点していてくれる。しかし私たちは、残念ながら、人間の作った光ばかりを追い求め、それだけを頼りにし、却って堂々巡りや立ち往生し、そしてかのウサギのように、眠りこけているのではないか。神の点される光を見て、その目的地、神の救いに目を上げたい。