「聞いていたことを」ヨハネの手紙一2章22~29節

「四十八茶百鼠」。茶色、鼠色(グレー)には、非常に多様で微妙なバリエーション、グラデーションがある。この由来は江戸時代に遡る。町人や商人が裕福になり、衣装にお金をかけ、贅を競うようになった。そこで「庶民に過剰な贅沢は風紀を乱す」と考えた江戸幕府が「奢侈禁止令」を出し、庶民の着物の色・柄・生地・値段に、規制をかけた。庶民が着られる着物の色は「茶」「鼠」「藍」の他あるべからず。ところがそれでお洒落をあきらめないのが町人の意地、許可された色の範疇で、「路考茶(ろこうちゃ)」「団十郎茶(だんじゅうろうちゃ)」「梅鼠(うめねず)」「鳩羽鼠(はとばねずみ)」等、微妙な染め分けをした新色を続々登場させ、落ち着いた色調の中でも「人とは違う着物」「粋な着物」即ち「個性」を追求した訳である。
しかしこれは単に、おしゃれというレベルの、色彩の違いの問題ではない。人間の個性は、「人格」に離れがたく結びついている。ひとり一人の人間こそが「四十八茶百鼠」なのだという。こういう人間観からすれば、人間を「善人」と「悪人」、また「正義」と「虚偽」に分けて考えるというのは、はなはだ短絡的で、偏狭な見方だと言えるだろう。黒一色、や白一色が好きな人、あるいは「虎や豹」の模様の服を着るのが好きな人はいるだろうが、もし人間そのものを色に喩えるなら、「黒一色」の人も「白一色」の人もいないだろう。
そこで、こういう文章がある。V.E.フランクルの『夜と霧』の中の言葉である。想像を絶する凄まじい収容所生活のなかで、二通りの人間がいた。人間的な感情を捨ててしまう人と捨てない人とがいる。それは被収容者も収容者を監視する側(ナチス)も同じだ。被収容者のなかにも、人間であることをやめてしまう人もいるし、監視する側の人間のなかにも、人間であることをやめない人とがいる。そうした地獄の中で、フランクルは生き延びる。そして収容所生活をふりかえって、こう言い切いる。「世の中には二種類の人間しかいない。まともな人間と、まともではない人間である」。
彼の言う「二種類の人間」をどう受け止めるのか。通常ならば人間を2つに分けて区別するのは、非常に乱暴で野蛮なやり方である。だから、もう少し言葉を加えるなら、災害や戦争という極限状況の中では、こうして人間がはっきりと二分されて、あらわにされるのである。ひどい震災の中で、倒壊したがれきの中で、たき火を囲んでぽつりぽつりと問わず語りに、語り合い、互いに肩を寄せ合い支え合おうとする人々がいる。しかし同時に、他所からやって来て、がれきのなかに忍び込んで、盗みを働く人間がいるのである。
ヨハネの手紙一から話をする。今日のパラグラフには、「反キリスト」「アンティキリスト」という刺激的な題名が付けられている。この題名で著作を行った哲学者もある。皆さんは「キリストに反する者」という言葉を聞いて、どういうイメージを抱くであろうか。「キリスト教は嫌いだ」とか、「イエスなどまやかし者だ」とか「聖書の言葉は嘘だ」、「神などいない」と公言することが、「反キリスト」か。さらに積極的に、キリスト教に反対し、宣教を妨害し、教会に石を投げるというような活動が「反キリスト」ということなのか。
ところが、積極的に聖書やキリスト教の悪口や、イエスのことを悪し様に罵る人は、得てして、聖書やキリスト教に強い関心を抱く人が多いのである。「嫌いきらいも好きの内」とは良くも言ったものだ。心の中で非常に気にかけているから、「嫌い」という態度になって出て来る。本音ではうらやましい、あこがれるという思いが屈折すると、「妬み」や「嫌がらせ」になって現れる。「屈折」は受け手には弱った事態だが、それでも「無関心」よりもましである。無関心には取りつく島がない。現代の宣教の困難は、「無関心」との戦いにある。「糠に釘、豆腐にかすがい」では、いかんともしがたいのである。「無関心」は「反キリスト」ではない。敢えて言えば「無キリスト」である。
それでは、世の中に起こる様々な「許されざる罪」と目される行為がある。例えば、無差別テロのような残虐非道なふるまいを人間はしでかすことがある。「殺人」も見ず知らずの他人を殺めることよりも、身内や身近な人々、家族や知人友人をめぐって生じることが多い。いたいけな子どもが、親の暴力によって犠牲となる、最も心痛い事象が、今日、度々伝えられる。こうした悲しむべき犯罪を犯す人が、「反キリスト」なのだろうか。確かに程度の差こそあれ、人間は何らかの罪を犯して生きている。その当人にとっては些細なことでも、罪は「残酷」な結果を必ずもたらす。「軽はずみな一言」でも、人は死ぬことがある。人間の「罪」に対して、神は決して無関心ではないし、放っておかれることはない。十字架の出来事で、私たちはそれを知らされたのである。
「反キリスト」について今日の聖書個所では、こう語る。22節「偽り者とは、イエスをメシアであることを否定する者でなくて、誰でありましょう。反キリストです」。ここで「アンティキリスト」という用語が使われている。ギリシャ語の「アンティ」という接頭語は、「その場所に立つ」という意味であって、本来「抗い、反対する」という意味を持っていない。「その前に立つ」、「しゃしゃり出る」という意味合いに近い。「本当はそこに立つべきではないのに、そこにいる理由もないのに、わざわざ前に出て道を塞ぐ」という程の意味であろうか。つまり自分がキリストに成り代わってしまう。神の如くにふるまう。するともはや主イエスの呼びかけも、神の言葉も、全く聞こえなくなってしまう。もはや自分しかないのだから。他の福音書では「反キリスト」のことをこう述べている。「世の終りが近づくと偽キリストや偽預言者が起こって、大きなしるしと奇跡をなし、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書24:24)。「偽者」は、本物の真似はできても、本物にはなれない。
人間であることは同じなのに、なぜこのような違いが現れるのか。何が二つに分けるのか。フランクルは、『夜と霧』の中で、病気が重いために間もなく亡くなるであろう一人の若い女性の、最期の姿を記している。最期の時まで、彼女は快活だった、という。「こんなにひどい目に会わせてくれた運命に感謝しています。裕福で甘やかされて育ったために、今まで本当の望みや真実に目を注いで来なかったから」。「窓の外に見えるあの木が、わたしのただ一人の友達です」。フランクルはこの言葉に驚き思わず尋ねる「木が何かあなたに何か語るのですか」。すると彼女は答える「あの木はこう言います。わたしはここにいる、わたしはここにいる、わたしはいるのだ、永遠の命だ」。
十字架に付けられた主は、死んでよみがえられた主は、今も私たちに呼びかける。「わたしはここにいる、永遠の命だ」。この言葉を真っすぐに聞く時に、私たちは目の前の現実を超えた、生命の希望に目を開くことができる。動けず、ただ床に横たわるだけになったとしても、そこに呼びかけて来る方がおられるのである