祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書12章28~34節

「この道ブワーッと行って、グワーッと曲がって、でっかいビル、ボワーン立ってるからその角シュッと曲がんねん」、大阪で道を尋ねると、こんな答えが返って来るとか。擬音語が多用されるので、一目散に走って行かなければならないような気持にさせられる。その言葉通り走って行ったら、そこに「交番」があった、などということもあるかも?
また、田舎で道を尋ねると、「すぐそこ」と言われる。近いのかと思って足を向けると、歩いても歩いても行き着かない。小一時間ばかり歩いて、さては道を間違ったか、と危ぶんでいると、ようやく目的地にたどり着いたりする。
「近い」、あるいは「遠い」という用語は、主観的な認識を表現しているので、明確な基準がある訳ではない。極論すれば、広大な宇宙の広がりからすれば、地球上の二点間の距離など、無に等しいことになるだろう。しかし、単に距離を明記するだけでは、実際の感覚が伝わってこない。だから不動産業等では、「近い」を「徒歩圏内」と措定している。ではそれが実際にどのくらいの距離か。「徒歩圏内」には個人差があるが、一般的には10~15分以内で行ける範囲であろう。不動産広告の場合は「1分間に80m」を標準とするから(結構な速足である)、「徒歩圏内」は実際の距離にすると「800m~1200m」となる。
最近ソーシャル・ディスタンスがよく話題にされる。安心安全な人間の距離は、概ね「2m」とされている。集団生活で密になりやすい学校で、児童が友人との距離をちゃんと保てるように、工夫もなされている。「時差登校」、「日傘を差しての登下校」等、自然にその距離が取れるような工夫もある。しかし、ソーシャル・ディスタンスは、実際の「距離」だけの問題ではなくて、関係の近さ、と深くつながっている。と遠ければ遠いほど「安心安全」かと言えば、その距離によって「人間のこころ」がスポイルされるという問題も生じる。「2m」という間隔は、ぎりぎりの線なのかもしれない。
今日の聖書個所は、共観福音書のどれにも記される逸話である。以前「聖書の学び」で書いたが、旧約には613の戒律があると見なされてきた。そんな膨大な戒律があれば、どれが最も重要か、の議論が始まるのは当然である。重要なものを特定して「大過なく」守ろう、という訳である。
主イエスが答えた2つの戒律の内、一番目の「神を愛せ」は、申命記6章4節に記されている「シェマーの祈り」の一部分である。他方「隣人を愛せ」は、レビ記19章18節、34節に2度繰り返される、これもまた有名な戒律である。確かにこの2つの誡めは、信仰と生活を密接につなぐ絆となるであろう。「神を愛する」だけで終わってしまったなら、人生やら生活やら、毎日の生きる意味は消えてしまうだろう。また「隣人を愛する」だけなら、日々の生活に埋没してしまうであろう。さらにとかく利害損得の情に揺り動かされる人間である、神を愛することによって、はじめて人は隣人を愛せるとも言えるだろう。
ただこれらの答えは、ある意味では教科書的な正解である。だから、主イエスも至極当然のこととして、応答している印象を受ける。そして問うてきた律法学者も、これまた納得至極というニュアンスで、主イエスの答弁の正当性に、敬意を払っている。「あなたの答えは、いかなる燔祭や犠牲にも優っている」。すると主イエスは律法学者にさらに言われる「あなたは、神の国から遠くない」。「遠くない」とはどういうことだろうか。
神学生時代、「説教学」の授業で、このテキストが模擬説教の題材として取り上げられた。そこでこの「遠くない」が議論の焦点になったことがある。主イエスは、この言葉を「ポジティブ」な意味合いで語っているのか、あるいは「ネガティブ」な感覚で語っているのか、という問題である。ある学生は、「遠くない」とは、「すぐ隣近所」という意味合いだろうから、すぐそばに生きている、即ち「サポーターや支援者、あるいは賛同者、理解者」ということで、律法学者をはじめとするユダヤ教徒とも、融和して仲良く生きることの可能性を示唆している、と主張した。
ところがある学生は、「遠くない」とは、「おしい」あるいは「かすっている」という意味合いだろうと指摘し、スポーツの試合や受験の合否の際に、接戦あるいはボーダーにある状態を表すとの理解から、結果とすれば、それは僅少差であっても「敗北」であり「不合格」を意味し、つまり残念ながら「神の国には入れない」と主張した。「遠くない」、たかが一歩、されど一歩である。皆さんはどう判断されるか。
神の国について、ファリサイ派から問われた時、主イエスは「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17章20~21節)と答えられた。口語訳聖書は「神の国はあなたがたの中にある」と訳していた。「中に」とすると、神の国を、理念あるいはイデアのように観念的にイメージされる恐れがあるとして、「間」と訳されるようになったのだろう。ギリシャ語でこの語は、例えば「台所は、この家の主婦の、手の内にある」という状況を表す際に用いられるという。「手の内」とは、「手の届く範囲内」という意味合いであり、手を伸ばして、台所にある道具や食品を、自分の思いのままに使用し、料理等を作ることができる、という状況を表現するものである。その用例から類推すれば、「神の国はあなたがたの中にある」とは、望んでも手の届かないところにあるのではなく、「手を伸ばせば、容易につかむことができる」、という意味になるだろう。但し、労を惜しんで、手を伸ばさず、無力感にひしがれて、手をこまねいているならば、神の国は無限に遠い、ということになるだろうか。
こういう話がある。この国で、とある外国人が道に迷い、最寄りの駅までの道順を尋ねた。すると尋ねられた人は、「丁度、自分もその近くに用事があるから、一緒に行こう」と連れ立って案内をしてくれたそうである。但し、その「近くに用事」というセリフは、嘘であることが見え見えであったが…。
初代教会の時代、「キリスト教」をいう名称が生まれていない頃、教会の人々は自らのことを「道」と名乗った。外の人々はそんな彼らを「その道の者」と呼んだのである。「その」道」とは「神の国への道」ということである。その道は、ローマ帝国が作った「街道」とは比べ物にならないくらい、小さくみすぼらしい道であったかもしない。しかしその道は、手を伸ばし、足を伸ばせば、誰でも歩めるものであった。「あなたは神の国に遠くない」とは、「共に歩もう」という主イエスのお誘いの言葉であるだろう。主イエスもまた、道を尋ねたら、一緒にお供をしてくださるであろう、きっと。