「大昔で、そこには今もマンモスがいるの」、「人魚たちが水の中に住んでいるの」
「そこには大きな大きな、すごく大きな砂場があるの」、「そこは秘密の世界で、人は地面の下に住んでるの」、「星に手が届くの」、「チョコレートの湖」、「地下にクジラがいるの」。これらは「どこに行きたい?」と尋ねられて答えたロシアの子ども達の答えである。では皆さんの行きたいところはどこか。すぐに返答できるだろうか。
では逆の質問で、「あなたの行きたくないところはどこか」。この質問にはどう答えるだろうか。こういう話がある。ある人がこの地上での生涯を閉じた。目を覚ますと空調の効いた快い清潔な部屋にいることが分かった。何かの望みがあれば、真っ白な衣服を着たお世話係がすぐに飛んで来てくれて、望みをかなえてくれる。食べ物でも、飲み物でも、娯楽でも、望み通りにしてくれる。しかしやがてこの人はそのような何不自由ない生活に、嫌気がさしてくる。「ああ退屈だ、もう飽き飽きして反吐が出そうだ」。そして世話係を呼んでこう言った。「いろいろしてもらってありがたいが、今度は自分でちょっと何かをしてみたいんだ」。すると世話係は顔を曇らせて言う。「それこそこの世界でかなえて差し上げられない唯一のことです」。するとその人は言う。「何もすることができないなんて、地獄にいる方がましだ」。すると世話係はあきれ顔で言う「あなたはご自分がどこにいるとお考えになっているのですか」。
皆さんは、このような世界で行きたいと思われるか。欲しいものはすべて手に入るが、自分からは何もすることを許されない世界、それは決して「天国」ではない、というのである。「行きたい場所」「行きたくない場所」とは、楽か苦か、苦労するか、否かだけでは決められないものであるらしい。そこは実は、本当の自分自身のあるところ、魂の置き所の問題と深くかかわっている。
今日の聖書個所は、現在のヨハネ福音書の最後の部分である。麗しいガリラヤ湖の畔での朝食の後、主イエスがペトロに問いかける。「あなたはわたしを愛するか」。この問いを主は三度繰り返される。「愛するか」という言葉を繰り返されるのは、いささか気恥ずかしい思いにもさせられる。もっとも三度目の「愛する」は、一度目、二度目の用語「アガパオー(アガペー)」ではなく、「フィレオー」が使われており、語調に変化が付けられている。解釈者によっては、この用語の変更を重く見る人もいる。三番目の問いは「愛する」ではなく「好き」という軽めの言葉で、はっきりと答えられないペトロの心情を、主は配慮されたのだ、と。そうかもしれない。
この三度の問い掛けをどう考えるだろうか。単純に考えれば、主イエスが十字架につけられる前の晩、捕縛された主イエスの後を密かについて行って、大祭司の庭に潜んだペトロが、使用人の女から「あの人の仲間だね」と言われた時、思わず「あの人のことは知らない」と否認した、あの「三度の裏切り」に対応している、ということである。「三度」否定されたからには、その意趣返しで「三度」確かめる、という訳である。但し、これではいささか、これ見よがしの意地悪のようにも受け取れる。
この「愛するか」という問いの言葉が、繰り返されることに、深く興味を覚える。「愛する」という言葉は、一度語ったら、もうそれでよい、ことは済んだということにはならないのである。家族でも友人でも、人間の絆は、どこまで行っても「ことば」が手掛かりなのである。勿論、実際に口から出る「言葉」として発することも大切であろうが、「愛」を、「言葉」にならない「ことば」によっても、語り続けることが、必要なのである。
かつて大祭司の庭で、ペトロは、主を「知らない」と言った。聖書で「知る」とは、「関係、関心、絆」を表す言葉である。あの時、彼は、主イエスと自分とは「無関係」「無関心」だと主張したのである。人はこの「知らない」を口にするとき、人でありながら人でなくなる。実にその反対語は「愛」だからである。ペトロが取り戻すべきなのは、努力や精進や熱心ではなく、「愛」なのである。人間は、生きる中で、ややもすると「愛」を失う。それを取り戻すには、何回もの「ことば」の繰り返しが必要なのである。
この「あなたはわたしを愛するか」という問いは、初代教会の洗礼式文に遡るのではないか、と推定する学者がいる。洗礼志願者は、この問いに「愛します」とはっきりと答えられて、バプテスマを受けるのである。キリスト教国では、子どもが誕生すると、生後間もなく「幼児洗礼」が授けられる場合が多い。自分の意志ではなく、両親の信仰、他の教会員の信仰に支えられてバプテスマを受けるのである。「自分の意志でない」から、大人になった時に、「信仰告白式(堅信礼)」を行い、自分の信仰を自分の口で言い表す。
ドイツでは、若い人たちの「信仰告白式」に、還暦を迎えた人々も共に立って、もう一度、信仰の告白を行う習慣があるという。髪が白くなり、年輪が刻まれた顔の人々が、神のみ前で、再び信仰を言い表す姿は、若い人に劣らず、会衆に感動を呼び起こすそうである。幾星霜、人生のさまざまな道を歩んできた者たちが、とにもかくにも主イエスから離れず、共に生きて来た、その事実を会衆は目の当たりにする。主から離れなかったというのは、自分が熱心で、誠実で、真面目で努力したからではなくて、主イエスが人生の中で、何度も何度も呼びかけ、み言葉を語ってくださったからだというのが、これら初老の人々の姿から透けて見えるのである。
18節「若いときは、行きたいところへいて行っていた。年を取ると、行きたくないところへ連れて行かれる」。これはペトロの殉教の運命を示すみ言葉であるが、殉教や信仰と無縁などの人にも当てはまる、人生の真実な姿であろう。私たちは皆、いつか「行きたくないところ」、自分の望まない場所に行かなくてはならない。しかも強いられて行かざるを得ない、というような状況に追いやられる。それはどこであろうか。病院や施設、あるいはさらにその先にあるところ、である。
そういう人生のリアルに、主イエスは言われる。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を表すようになる」。そこに神の栄光が現われるというのである。自分ののぞまないところに連れて行かれる、それもまた神の栄光が現われる舞台となる。というのである。
こういう文章がある。「能力の可能性を求めて新しい機会を探すことは意味のあることですが、その機会に恵まれず不完全燃焼をかこちつつ生きるとしても、必ずしも不幸ではないことを弁えておきましょう。誠実に生きれば、どんなところでも輝くのが命だからです。能力が発揮できることと、命が輝くということは全く別です。得意において褪せる命もあれば、失意において輝く命もあるのです」(藤木正三『福音葉とどいていますか』)。
「行きたいところ」ばかりでなく「行きたくないところ」にも、私たちは行かなくてはならない時が来る。あるいは出て行きたいのに、家におることを要請されることもある。自分の本意ではないことに、私たちはがっかりし、失望するけれども、そこにも「神の栄光のあらわれ」がある。主イエスにあっては「得意に褪せる命もあり、失意の中で輝く命もある」。どんなところでも、生命は輝くのである。