祈祷会・聖書の学び テサロニケの信徒への手紙二1章1~12節

「新型コロナ・ウイルス感染症」の蔓延を受けて、現在「自粛」「巣ごもり生活」を余儀なくされている私たちである。所在のなさを紛らわすために、個々人でいろいろな過ごし方を工夫していることであろう。普段まとまった時間が取れず疎遠となっていた手芸や音楽に勤しむ人が多いと聞いた。さらに犬の散歩に、一日に何回も出かけるお父さんが多いらしい。今まではなかなか連れて行ってくれなかったご主人様が、突然、頻繁に散歩に行くことに面食らった犬が、目を白黒させて当惑している、との冗談も語られる。
読書に時間を割く人も多いらしい。しかも長らく本棚に棚ざらし、埃まみれになっている「古典」や「名作」をおもむろに取り出して繙く人も多いだろう。アルベール・カミュ作『ペスト』(1947年刊)が再評価されていると伝えられるが、やはり今を取り巻く状況の相似性を作品に感じるからであろう。
物語はこう始まる。ペスト蔓延の中で、市民たちは未来への希望も過去への追憶も奪われ『現在』という時間の中に閉じ込められていく。ペスト予防や患者治癒の試みがことごとく挫折する中、現実逃避を始める市民に対して、神父パヌルーは『ペストは神の審判のしるし』と訴え、人々に悔い改めを迫り、『天国』に行けるように準備をせよ、と説教する。その一方で、保健隊を結成し、あらん限りに力をふりしぼってペストとの絶望的な闘いを続ける医師リウーやその友人タルー、役人グラン、脱出を断念し、彼らと連帯する新聞記者ランベールがいる。彼らを支えたのは、決して大げさなものではなく、ささやかな仕事への愛であり、人と人とをつなぐ連帯の感情であり、自分の職務を果たすことへの誠実さだった。
神父は懸命に命のために戦う医師リウーに問う「君の戦いは、結局は敗北に終わるものではないか」。ひとつの病気に打ち勝ったとて、また人間は新たな病魔に悩まされるではないか。そして人は誰も、努力した所で、この世で永遠に生きるわけではない、というのである。これを問われて医師は答える「そうです、永遠の敗北です。しかし、だからといって戦いを止める理由にはなりません」。
カミュはこの作品を通して、人間としてふさわしい在り方、生き方、人間の尊厳とは何かを鋭く問うている。確かに人間は、有限な存在であるから、小さな目に見えない程のウイルスによっても、斃れるのである。そういうか弱い存在が、どうして「神のかたち」なのか。どこにそれは現れているのか、を指し示そうとしているのである。
テサロニケの信徒への手紙二を取り上げる。手紙一の続報という体裁で記されている。学者は先の手紙と、二の手紙を比較して、用語や構文等そのままの文章が、繰り返されているにもかかわらず、主張するところが真逆であるので、二の手紙はパウロの手になるものではないと判断している。違いは、一の手紙は、間近な終末・主の再臨への期待観が非常に強いのに比して、手紙二は、過剰な終末待望を批判し、今、足を地につけて生きるべきことを説くのである。
いつの時代でもそうだが、自然災害や疫病等の災厄、あるいは戦争が起きると、それが終末の前兆であることを語り、それを利用して人心を統制しようと企む輩が現われる。今、世界は広く「コロナ禍」に見舞われているが、世界の生命の危機に対処すべく、多くの国々で非常事態宣言が発せられている。危急存亡の名の下に、生命を守るために、人権や自由が制限される。状況を慮れば、ある程度、致し方のないことではあろう。ところが、「コロナ禍」が過ぎ去っても、それがさらに継続されるような事態が起こるかもしれない。危機は外と内、両方から来るのである。
初代教会もそうであった。「終末」の待望は、信仰に「熱気」を与え、信仰者たちに「求心力」をもたらした。ところが同時にそれは、日常生活の軽視をももたらしたのである。毎日の生活、日常の働き、喜怒哀楽、という当たり前だが、安心して生きるためになくてならぬものを、「些細なこと、取るに足らぬこと」として捨象してしまうのである。大義と呼ばれるものの前に、ひとり一人の生命は、紙よりも軽くなる。初代教会もそのような危機の時代を前にしていたのである。
今日の聖書個所は、テサロニケ後書の冒頭部分だが、その初めから、教会の日常的な交わり、人と人との毎日の当たり前のふれ合い、そこに込められたひとり一人のあたたかな心遣いが称賛されるのである。3節「お互いに対するひとり一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」と語られる。これを措いて他に「信仰の成長」はないのである。信仰というものは、いくら真剣で熱心であっても、心が燃やされていても、他の人々のことが目に入らない「偏狭さ」の中にあるなら、成長とは程遠いのである。「愛がなければ空しい」のである。
さらに4節「受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示している」と併せて語られている。「信仰」と訳されるギリシャ語の用語は、「誠実、忠実」という意味がまず先にある。即ち、人間は、どんな人も「貧老病死」に象徴される四苦八苦を、向かい合って生きることになるのだが、そこで問われるのは、「忍耐と誠実」なのである。物事を誠実に受け止め、誠実にあろうとするなら、忍耐が必要である。いつもあたふたしているなら、自分を失ってしまう。誠実と忍耐は、実に希望を生み出すからである。
聖書では「終末」とは、神の裁きの時として語られる。「裁き」とは「捌き」であり、何が本当の価値であるか、を明らかにすることなのである。人間は神の真実を本当には理解しえないばかりか、自分自身の人生の価値をも、本当は知りえない存在なのである。皆目分からない神の真実が、目の前に余すところなく開陳され、開示されることが、「裁き」の本質であり、神の報いなのである。「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます」(7節)。
神は唐突に、人間には訳も分からず「終末」をもたらすようなことはなさらない。すべての人々にはっきり分かるように、再び主イエス・キリストを遣わしてくださる。だからあたふたと心配し、どうなるか不安におびえることはないのである。すべては神のみ手の中にある。