祈祷会・聖書の学び テサロニケの信徒への手紙一2章13~20節

「咲く」と「幸い」。古い日本語では根っこ(語根)が同じ言葉であると考えられている。。「幸い」は古語で「さきはひ」と言う。「さき」は「さく」の名詞形。「はひ」とは、ある状態がずっと続くこと。長い縄を使う延縄(はえなわ)漁の「はえ」もそれに当たるそうだ。つまり「幸い」と言う言葉は元々「花盛りが長く続く」ことという意味になるだろう。そこから古代の日本人の幸福観とは「心の中に、いっぱい花が咲きあふれている様子」と理解することができる。
4月から5月にかけて、桜、桃、ハナミズキ、つつじ、ぼたんと、様々な花が次々に開花していく。例年よりもその花々の美しさが心に染みるのは、却って否応なしに強いられている「巣ごもり生活」の賜物かもしれない。自分勝手に振舞えない、不自由さが、別のところに、心を向けさせてくれる、ということも、「幸い」と呼ぶべきなのだろう。
テサロニケの手紙一は、パウロの手になる手紙の中で、最初期のものとみなされている。他の手紙よりも、切迫した「終末」観が意識されていることや、まだ「キリスト教」という名も生まれていない頃に、パウロの伝えた宗教思想を、新鮮な思いで受け止めている人々の様子が伝えられているからである。それはテサロニケという町が、自治を許されていた町で、進取の精神に満ちていたからでもあろう。他方、都市に住む人々の孤独や漠然とした不安、あるいは倦怠に応えるものを、教会が示すことができたからであろう。
テサロニケの町は、現代ギリシャ共和国においても、首都アテネに次ぐ大きな都市であり、テルメ湾の北東端に位置する良港を有している。ローマ時代には、オリエント世界へ通じるエグナティア街道の要衝でもあり、今に至るまで、通商や貿易の要であり続けた。パウロは、第2回目の伝道旅行において、この町を訪れたようだ。パウロは、ヘレニズム地域において伝道の拠点となるべき場所をまず訪れている。戦国時代にキリスト教が伝来した時に、宣教師ザビエルは種子島に上陸したが、程なく九州から関西、京都を目指したのである。さらに明治期になると再び宣教師は来日するが、長崎に上陸した彼らも皆、すぐに東京を目指すようになるのである。この辺りに、宣教の根本的問題を見ることもできるだろう。
使徒言行録17章に、パウロはテサロニケの町のユダヤ人会堂で、「3回の安息日にわたって」人々と論じ合い、宣教を行ったことが記されている。どの程度の間、滞在したかは不明であるが、いくらかの期間で伝道がなされ、それが実を結び、ユダヤ人たちの内で「ある者は信じて、パウロとシラスに従った」のである。この町に住むユダヤ人ばかりでなく、「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように2人に従った」(4節)と伝えられている。
この世に教会が誕生した、その初めからの宿命とも言える事柄が「迫害」であった。最初に誕生したであろうエルサレム教会では、ナザレのイエスを「メシア」と信仰告白することで、ユダヤ人からの誹謗や中傷に悩まされた。それは異邦人教会でも同じことであった。ヘレニズム世界の習俗や慣習をないがしろにするとして、地域社会から攻撃を受けたのである。そうした周囲の無理解の中に置かれ、苦労している教会を、そこに集う人々のことを人一倍心配しているのが、パウロなのである。何らかの事情で遠方にいるなら、すぐ飛んで行って激励するのが、心映えというものであろう。ところがパウロにはそれができない訳があった。彼自身が「肉体のとげ」と呼ぶ、おそらくは厄介な宿痾が、パウロを度々悩ませ続けたのである。
今日の聖書個所に、17節以下「あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらに行こうと思いました。殊にわたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました」。周りからの無理解によって、苦境にあるテサロニケの人々のところに赴き、直に顔を見て、言葉を交わしたい。おそらく人と人との関係において、これに勝るものはないだろう。ところがその「善い心」がサタンによって妨げられる。現実にはしばしばこうしたことが起こって来る。「善い」から自ずとうまく行く、というものでもない。「善」がいつも「良い結果」をもたらすわけではない。
パウロの言う「サタンの妨げ」は、具体的には、彼に「宿痾の病」が起こったということであろう。病に倒れ、念願の目的を果たせない、しかも再三再四。当然のことながら、失望や落胆が大きく心に沸き起こる。「病気」というどうにもならない事柄に邪魔されて、道が塞がれてしまう。今の私たちの状況も、それに似ているとも言えるだろう。
遠くまで行くことができない。現代ならば、ITを利用しての「テレワーク」で対処する処である。ところが時代は古代ローマ帝政期である。遠く離れて(テレ)いても、心は共にありたいとパウロは強く願っている。17節「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではない」。たとえ姿はなくても、心は言葉によって、明らかにすることができる。そこで彼がとった方法は、「手紙」を記し、送付するという戦略であった。この時代、手紙というコミュニケーションの手段は、一般的な方法ではない。時間も経費も非常に掛かるやり方だが、彼はそれを敢えて選んだのである。「手紙」ならば「回覧、保存」、繰り返し「再生」「複製」という媒体上のメリットも多い。教会の礼拝や集会の場で、彼の手紙の文面が朗読されることも期待してのことである。不在でも共にいるかのように、現代の「テレワーク」の元祖がパウロの手紙である、と言っても良いのではないか。それは彼の病というマイナスの中で仕方なく取られた、もうひとつ別の手段である。神はひとつの扉を塞がれると、必ず別の門を開いてくださるのである。
「幸い」の語根である「咲く」という言葉は、盛り場の「さかり」も、花見酒の「さけ」もその言葉の仲間だという。今は不要不急の外出、帰省や、密集などの「三密」を「避く」べしと強調される。それもまた生命が「花咲く」ための方策であろう。美しい花を心の中でいっぱい咲かせたい。「巣ごもり」の中で何が幸いかを考えながら。