「預言者を立てられる」申命記18章15~22節

「今どきの若い者は」、この枕詞に続く文章は何だろうか。「なっとらん」、と続くのが定番である。民俗学者の柳田国男氏が英国の学者から聞いた話として書き留めたところでは、約4千年前のエジプトの古文書にも「この頃の若い者は」という嘆き節が出てくるという。

では「この世の優等生よ、君は、知力においても、武力においても、最も評判の高い偉大な国家の民でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいということばかりに気を使っていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけ良いものにするということに気を使わず心配もしていないとは」。この言葉は誰の口から出た言葉か、お分かりだろうか。古代ギリシャ、アテナイの哲学者ソクラテスの発言とされている。プラトンが記した『ソクラテスの弁明』中に伝えられている。

約二千五百年前の古代人の言葉だが、どうか、現代の実際の国々にも、そっくりそのまま当てはまるような論評である。「金銭や評判や地位のことばかり気にしているが、魂のことを少しも気に掛けず、心配もしていない」。こういう言葉を読むと、進歩だ発展だ、成長だと言っても、人間というものには、時代を超えて少しも変わらない事柄が付きまとっていることを思わされる。これを「普遍(ふつうにあまねく)」と呼ぶが、哲学の探求する事柄の中心テーマである。哲学にとって、時代を超えて不変なものこそが真理である。

かのソクラテスであるが、彼は自分のことを何と呼んだか。「アテナイの虻」、動物や人間の周りをぶんぶんと飛び回り、針でチクリと刺して血を吸うあの「あぶない虻」である。「それはちょうど、ここに一匹の馬がいるとして、これは素性のよい大きな馬なのですが、おおきいためにかえってふつうより鈍いところがあり、目をさましているのには、なにか虻の様なものが必要だという、そういう場合にあたるのです。つまり神は、わたしをちょうどその虻の様な者としてこの町に付着(遣わ)させられたのではないかと、私には思われるのです。つまりわたしは、あなた方をめざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついていって、膝をまじえて、まる一日、説得したり、非難したりすることを、すこしもやめない者なのです」。確かに虻は厄介者だが、このように無批判、無感覚に陥る人間を、チクリと刺して目覚めさせる、そういう役割が、この人間の社会には必要であることを改めて教えられるように思う。

今日は申命記からお話をする。この書物の題名は「漢訳聖書」に由来し、「繰り返し命じる」という意味を持っている。旧約の最初の五つの書物は、ユダヤ教では「律法」と称され、ユダヤ教信仰の根幹とみなされているが、「申命記」の内容は、最初から四番目までの文書中の「律法」を、再度まとめて語り直しているような趣を持つからである。ユダヤ教での題名は「言葉(ディバリーム)」である。

今日の個所では「預言者」という言葉がキイワードである。15節「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」。「わたしのような」の「わたし」とはモーセのことである。ヘブライ人の家に生まれ、幼くしてナイル川に流されるが、ファラオの王女に拾われて養育され、エジプトの王子のひとりとなった。しかし、同胞を殺害するというスキャンダルによってエジプトを追われ、ミディアンの羊飼いに身をやつし、しばらく静かな家庭生活を営む。しかし神の山ホレブにおいてイスラエルの神に出会い、奴隷として苦しむイスラエルの人々を、エジプトから導き出せとの召命を受ける。劇的な生涯の人である。

イスラエルにとって、モーセは偉大な指導者であったが、彼は自らを「預言者」として理解していた。「預言者」とは、神から直に啓示を受け、神からみ言葉を託され、人々にこれを告げる役割を担った人である。「神の言葉を告げる」、それ以上でも、それ以下でもない。旧約に連綿たる預言者の名が記されているが、年齢も、身分も、立場も、職業も、性別も、活動期間もまちまちで、実に多様な人々が、この役目に従事している。何か資格があるのはない、何か条件があるのではない、何ほどかの資質が求められるのでもない。ただただ神の呼びかけによって、この任務に携わるのである。だからその役割の重責に、しり込みし、逃げ出す者もあった。それでもみ言葉に引っぱられて、あるいは押し出されて、どうしても語らざるを得ないゆえに語った、そういう人たちである。

「主はあなたの中から、あなたの同胞の中から」預言者を立てられると言われる。すぐ身近なところから、あなたの隣近所から、預言者、神の言葉を伝える者は選ばれ、任命されるのである。人間的には、極く普通の、どこにでもいそうな、世間の人が、神の言葉を伝える。しかしこれこそがイスラエルの信仰の生命であった。信仰とは、「冠婚葬祭」といった特別な場合のしきたりや慣習ではなくて、普段の日常生活の、今日生きるという時と場所の問題なのである。高貴な家柄出身で、古い伝統に従って育まれ、特別な資質を持つとみなされる人物に、その任が委ねられるのではない。

イスラエルの人々は、神の山ホレブで神の言葉を聞いた時に、「主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないように」求めたと言う。かつて奴隷の地エジプトを後にして、荒れ野を彷徨うイスラエルの人々は、神の山ホレブの麓で、神の声を聞き、その栄光をその目で見たのである。疑いの中にあった人々にとって、念願の神との出会いである。自分の目で確かめた、ではそこに大きな喜びがあふれたか、そうではない。その時、人々はみな打ちひしがれて、打ち倒されて、死んだようになった、と伝えられる。本来、神のみ言葉とその栄光に前に、人間は耐えることができない。太陽ですらも直接見るなら、目が見えなくなってしまうだろう。ましてや人は、その罪のゆえに、直には神の言葉に耐えることができない。だから神と人との間にあって、「神の言葉」を、「人間の言葉」によって取り次いでくれる「預言者」が必要になるのである。その預言者を、実にあなた方の間に、手の届くところに、立てると約束された。手を伸ばし、心を向ければ、神の言葉は確かにそこにあるのである。

神の言葉は、「あなた方の間に、そしてあなた方の同胞の中から」と語られている。つまり神の言葉は、あなたがたの生活のただ中に、その真ん中に、やって来る、というのである。はるばる千里の道を超えて、患難万苦の修行の末に、ようやく手に入れられるというようなものではない。「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。手を伸ばせばそこに、それこそ主イエスのことに他ならない。主イエスは私たちの救いのために人となってくださった。すぐ隣にお出でくださった、まさに共なる方である。

昨日、私たちの教会では、「特別伝道集会」が開催された。川和教会牧師、平良愛香氏から貴重な講演をいただいた。「性」という「あたりまえ」に思えるような従来の人間観を、鋭く問い直す示唆に富んだ内容であった。氏はご自身の足跡をまとめられた著書『あなたが気づかないだけで 神様もゲイも いつもあなたのそばにいる』(学研出版)の中に、次のように記しておられる。「異性を愛する人であろうと、同性を愛するひとであろうと、神はすべての人々を祝福している」。この祝福は、「今、ここで」もたらされるものであって、あなたがたの生活のただ中に、その真ん中に、祝福はやって来るのである。さらにあなたが反省し、罪を清めたら、というような条件付きのものでもない。そのまま、ありのままの祝福である。なぜなら、主イエスの救いのしるしである十字架は、この世のただなかに立てられたのである。人間のあらゆる嘆きや悲しみ、痛みが入り混じるこの世のただなかに、主イエスは苦しみ、血を流し、その罪を担ったのである。そうして神の祝福は私の所に、届けられた。

平良氏のお父さんがこう言われたそうだ。「同性愛者だということが、神が愛香に与えられた十字架なんだな」。そして平良氏はこの言葉を次のように受け留める、「父にとっての十字架は沖縄です。父はずっとその十字架を背負って、沖縄の人のために尽くしてきました。十字架はとても重いものだけど、使命でもあり、喜びでもあるのです。僕はこの言葉を聞いて、真の意味で父に認めてもらえたのだと感じました」。ここで「父に認められた」という言葉は、肉親や家族を超えて、天から響く言葉ではないのか。神の言葉は、あなたの手の届くところに、語られている。