ファラオの夢の解き明かしによって、エジプトの大飢饉を予見し、「リスク・マネジメント」に手腕を発揮したヨセフは、エジプトの宰相、ナンバー2の地位に上り詰める。「飢饉」というネガティブな災厄が、彼の人生を大逆転させるのである。さらにこの飢饉によって、図らずも因縁の兄たちと再会を果たすことになるのである。ネガティブなものはマイナスにしか働かないなどということはない。こういう巡る因果の糸が、人生には張り巡らされていること、何者かがその糸を紡ぎ、この世界に静かにその糸を繋いでいることを、この物語は背後に暗示させるのである。
最初に兄たちがヨセフの下を訪れ、穀物を乞うた時、ヨセフは巧妙に、彼らから家族の動静について、リアルな情報を聞き出すことに成功する。正しい判断と行動のためには、正確な情報が必要である。「情報」の力をヨセフはよく知っている。己の生命を無きものにしようとした非情な兄たちに対して、警戒怠りなく、用心しつつも、彼らへの報復の方図をも練っている。同時に彼自身も人の子であり、肉親への恩愛の情の間に揺れ動き、心は動揺している。こうして再会を果たした今、親族との関係をまったく断つことはできないが、すぐに和解もかなわない中途半端な立ち位置にある。
そういう複雑にからみあった思いの中で、やはり同じ母から生まれた子である実弟ベニヤミンのことが、一番、気がかりなのである。兄たちのもとにではなく、せめて彼だけでも自分の手元に置きたい、という思いが、強く彼を突き動かす。そこで彼らがエジプトとの関係をその場限りにしないために、穀物の代金を密かに彼らの穀物の袋に戻す、という不可解に思える手段を用いる。丸きりその意図や理由が分からない不可解なことに、人間は拘泥するからである。
ところで皆さんはどう思われるか。あれから時は経っている。十年一昔、それでも共に同じ屋根の下で暮らしてきた肉親、家族なのである。兄たちはどうして、エジプトの宰相が、実はヨセフその人であることを見抜けなかったのか。確かに自分たちが目の前にしている相手は、ファラオの代理を務めるエジプトNo2の、今を時めく宰相様である。恐れ多くて顔を上げられなかったこともあるし、まさかエジプトの宮廷で、あの因縁のヨセフに再会しようなどとは、夢にも思わなかったであろう。
顔を見分けられなかった一つの可能性として、エジプト人は、日常的に男も女も化粧していたということがある。あのツタンカーメンの黄金のマスクの目の隈取、青く塗られているが、あれは当時のエジプト人の普通の身だしなみを表している。宰相ともなれば、ファラオと同じようないでたちをしていてもおかしくはない。化粧をし、今や正真正銘の長袖の、そして裾丈の長い晴れ着を着て、自分たちを見下ろしているエジプト高級官僚が、あの奴隷に売ったヨセフだと気づく者はなかったろう。
さて、飢饉が長引き、一度の穀物購入だけでは、食料が非常に乏しくなった。父老ヤコブは息子たちに、再度、エジプトに赴くことを命じる。しかし、老ヤコブも知恵者である。エジプトの宰相と息子たちとの妙なやり取り、密かに代金を戻すという常識外れのふるまいに、薄気味悪いものを感じていただろう。何らかのからくりが仕組まれている、と踏んで、エジプトの宰相の心を少しでも懐柔したいと考え、贈答品を準備させる。43章11節以下にその贈答品の細目が記されている。この土地の名産の品々だと言う。即ち「乳香、蜂蜜、樹脂(トラガカントゴム、植物由来の増粘乳化剤、化粧品)、没薬、ピスタチオ、アーモンド等のナッツ類」、これらの品々は、古代に聖書の民が、外交や国際交流の際、正式な贈答品として贈呈したものばかりである。現在でも、ナッツ類は、パレスチナの特産品として名高いし、土産物としても有名である。やはり亀の甲より年の劫,老ヤコブの見識は確かなものがあるだろう。実際、ヨセフが故郷を思い起こし、肉親の情にほだされて素性を隠しておくことに耐えがたくなったのも、これらの贈答品が一役買っていたことは、十分にありうる。これらの贈り物は、懐かしい故郷の「香りと味」の集大成である。あの懐かしの唱歌「母さんが夜なべをして手袋編んでくれた。いろりの匂いがした」の通りである。香りを嗅げば、昔が偲ばれ、懐かしの食べ物を味わえば、否が応でも故郷を懐かしく思うものである。
さて今日の個所で、ヨセフは策略を巡らして、実弟ベニヤミンを手元に留め置こうとする。「銀の杯」をベニヤミンの荷物に忍ばせ、盗みの嫌疑によって、弟だけを兄たちから引きはがそうとするのである。兄弟家族、誰の命も奪わないが、喪失の痛みや嘆きは兄弟たちに知らしめよう、という心理的な報復を画策するのである。ベニヤミンを失うことで、兄たちは自分たちの不甲斐なさに、臍を噛むだろう。さらに厳父ヤコブは、末子ベニヤミンを守れなかった無能な兄たち対し、ひどくつらい態度に出るだろう。それが自分を奴隷に売った兄たちから受けた仕打ちに対しての、一番の報復と、考えたのだろう。
しかしここで、事態は新たな局面を迎える。18節以下で、兄弟の中で、ユダがこの非情な宰相と直に対面し、説得を試みるのである。普通なら最も年長の長男ルベンが、宰相と向かい合うべきである。長男を差し置いてユダが前面に立つのはなぜか。それはイスラエル十二部族の中で、有力な家柄はやはりヨセフ族とユダ族だからである。だからこうして最も有力な者同士(主役と準主役)が、ドラマのクライマックスには、二人で前面に立つことになる。スポットライトがこの二人に当たり、二人の姿を鮮やかに映し出している。映画の一場面としても、実に絵になるスチールである。
ユダは、父親、老ヤコブの嘆きと悲しみ、そして「子が思う思いにまさる親心」の情に訴えつつ説得を試み、自分の身と命と引き換えにベニヤミンの解放を願い出る。これは破れ口に立って、2つのものの間に立って、自分の身を挺してとりなしを試みる。とりなしこそが真のイスラエルのあり方なのである。神と人との間にあっても、それは変わることはない。傍観者としてではなく当事者として、みずからが絆となって、結び付け繋ぎとめる、「とりなし」があるからこそ、和解もそこに生まれる。様々な関係に悩みつつ、苦慮しつつ、呻きつつ歩んできた、イスラエル人の姿がここに描き出されている。これを語る者がユダ、つまり後のダビデであり、さらに主イエスの家系まで連なるのである。ヨセフが主人公とはいうものの、わき役のユダが、和解の立役者となって脚光を浴びるのである