祝イースター。
今年の「受難節」は、まさに世界中が「受難」の時を経験したような趣がある。毎年、アドヴェントでもレントでも、教会暦にふさわしい何らかの出来事に、私たちは導かれるものだが、今年は聊か、重すぎる「受難節」でもあった。しかも、今もなお過ぎ去ってはいないのである。ユダヤの「過越」の祭りに、主イエスは十字架につけられた。エジプトで「疫病」が過ぎ越していった幸いを記念する祭りの時である。ところがいま私たちが経験している「受難」は、まだ「過越」てはいない。「終わりが見えない」、「出口が見えない」、「答えが出ない」事柄に、人間は最も悩まされるのである。
哲学者の鷲田清一氏は、複数の大学で総長あるいは学長を務められた方である。その頃は、年が明けるや、心がそわそわと落ち着かなくなったそうである。卒業式と入学式の式辞を考えなければならないからだ。この国の人口は、間違いなく減っていく。この先どうなるか確たることが言えない。未来は決して明るくない。そんな気分が充満する中、どうか心に留めてほしいと願いを込めた言葉には、学生ならずともハッとさせられる。「人生において、そして社会において大事な問題は答えがすぐに出ないものばかりなのです」。ある年の入学式では、分からないことや見通しが利かないことに、的確に対処する知恵や技術が大事だ、と呼び掛けている。
「大事な問題は、答えはすぐに出ない」、これは古くからの真理であり、今も全く変わることのない事柄であろう。「分からないことや見通しが効かないことに、的確に対処する」とは、どのようにしたならば可能なのだろうか。「忘れない」、しかし「むきになって考えない」、そして「心のどこかにいつも引っかけておく」ということだろうか。
今年のイースターの聖書個所は、ヨハネによる福音書の「復活の物語」である。ヨハネの記述には、ユーモラスな情景が描かれている。「主を収めた墓をふさぐ石が取り除けられている」、とマグダラのマリアからの知らせを受けた弟子二人、ペトロとヨハネが競争して墓に駆けつける。一歩先んじて、「わたし、ヨハネが先に着いた」、と誇らしげに記していることが、何となく微笑ましい。「墓の中を真っ先に見て、空であることを確認したのは、俺だ」と言わんばかりである。この故事を基にして、ある国では復活の朝に、若者が徒競走を行う風習の地域があるという。一番乗りは気持ちの良いものだろうが、優越感には浸れても、主イエスは「一番」を殊更に評価することはなさらなかった。主イエスの口から「後のものは先になり、先のものは後になる」という不思議な天国の論理が語られているのである。
確かに競争してヨハネは勝った。しかし一番になったからと言って、真実が理解できる、本当のことを悟ることができるという訳ではない。8節にこう記されている。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」。百聞は一見にしかずと言われる。マグダラのマリアが語ったことは、その通りだということは分かった。「信じた」とは、主イエスの復活の出来事を信じた、というのではない。「女の言ったとおりだった」、ということである。それでも「来て、見て、信じる(確認する)」ことは、知ること、認識の原点であることに間違いはない。これは科学でも宗教でも、政治でも社会でも同じことである。この姿勢を保つことからしか、真実への道は歩めないと言えるだろう。
ところが問題は、それですぐに「分かる」という風にはならないことである。9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」。二人とも全く理解していないのである。目の前に繰り広げられている事柄、即ち「主の遺体を収めたはずの墓が空」であって、「遺体に巻いたはずの亜麻布が、丸められて置かれている」のを、実際に「来て、見て、確認」しても、真実を理解したことにはならない。つまり、そこからまた新しい旅が始まるのである。
二人の弟子は、家に帰り、他の弟子たちと共に、ユダヤ人を恐れて家に籠ったと伝えられている。そしてマグダラのマリアも、名残惜しくて、不可解で、不気味な「空の墓」の中に籠ったのである。そこには怖れと不安、不条理と不可解とに満ちて「内に籠っている」人間の姿が描かれている。それこそ、人間のありのままの姿、偽らざるかたちであるだろう。そういう「巣ごもり」のような人々に、主イエスは復活して、現れて、み言葉を語ってくださった。それは、怖れと不安の中で、不条理と不可解の中で、生きて働く主イエスがおられるという事実であった。今も同じみ言葉が、私たちに告げられている。「巣ごもり生活」の中で、である。
今年の桜は、受難を強いられているようだった。飲んで騒いでの花見がなくなり、ゆるりと歩いて眺めてくれるかと思いきや、ところによっては、立ち入りすら禁止されてしまった。三月の末には、季節外れの大雪に見舞われた。近所の桜の木を見ると、降った雪が花びらから垂れ下がり、さすがに桜の木も、寒さに凍えているようだった。それでも桜は咲くのである。人が見ても見なくても、雪が降っても、突然の寒波にも、花を咲かすのである。外出制限の厳しい欧米では、家の窓に子どもの描いた虹の絵を掲げる動きが広がっているという。人々を励まし、希望を忘れぬしるしとして、掲げるものだと聞く。確かに雨が降らなければ、虹は架からない。怖れと不安の中で、不条理と不可解の中でも、光は差すことを伝えているのである。
「理解しなかった」「分からなかった」、目の前の空の墓、死体に巻いた亜麻布だけが、丸められて転がっているのを見ても、主の最もおそば近くに仕えたペトロも、ヨハネも、マグダラのマリアも、「復活」を思いめぐらすことはできなかった。神のなさるみわざに対して、人間は理解できず、分からないものなのだろう。しかし「まだ理解していなかった」弟子たちも、後になって、「主は生きておられる」ことを知らされたのである。今、私たちの抱える苦難も、嘆きも痛みも、そこに「主は生きて働いておられる」ことを知る時が来るであろう。なぜなら「理解しなかった」弟子たちに、主イエスの方から姿を現し、み言葉を告げられるからである。今もそれは何ら、変わる所はない。イースターおめでとう。この世界がどれほど悩みと闇に満ちていても、今日、主はよみがえられたのである。