主日礼拝「お言葉のとおりに」士師記13章2~14節

「それいけ!アンパンマン」の原作者として有名なやなせたかし氏、2013年10月13日に94歳で召天された。今も子どもたちに愛されている「アンパンマン」だが、この作者は第二次世界大戦に徴兵され、占領地の地元民対応工作で紙芝居をしていたという。この作品がそういう背景の中から生まれてきたことに、なる程と思う。

敗戦後、新聞社に就職し、後に三越デパートの宣伝部に転職し、あの有名な赤と白のラッピングペーパーのレタリングを手がけたということである。1969年、雑誌にアンパンマンが初めて登場し、88年からはテレビアニメが開始された。「敵をやっつけるのではなく、飢えた人を助けるヒーローが必要」だと思い、子どもの時も、軍隊にいたときもすぐ側にあった「あんぱんがいい」と思ったことから、そのキャラクターが生まれた。ライバル役の「ばいきんまん」は、いつも主人公の邪魔するが、人間もばい菌と一緒に生きており、孤独な者同士、共に生きているということだという。オープニングの「あんパンのマーチ」の歌詞は「なんのために生まれて なにをして生きるのか」。たとえ願い通りのものに出会えなくても、何かを求めながら生きたならそれでいい、と思えるような印象的な歌詞である。これも彼の人生経験が裏打ちされているのだろう。生まれてきた赤ん坊が、最初に口にする言葉が、最近では「あんぱんまん」だという、という話を聞いた。現代のヒーロー、英雄のひとつの姿、イメージとなっている。

文学には「ジャンル」があり、古代から現代まで、いくつかの物語のパターンが存在する。おそらくもっとも古い文学類型が「英雄物語」であろう。そして現代にも、形は違えど、何らかの英雄の生涯について、フィクション、ノンフィクションを問わず描かれ続けられている。

今朝は、士師記13章「サムソンの物語」から話をする。聖書中の「英雄物語」の典型である。この物語に先述される「ギデオン」にまつわる話も、またそのひとつであるが、サムソンを描く物語は、破天荒で、人間離れをしており、プロットや、ストーリー展開も、まさにエンターテインメント文学として、現代に十分に通用するほどである。だからこの物語を題材にして、小説に再話されたり、映画化されてきたことも頷ける。

ある学者によれば、古典的な「英雄譚」を構成する要素は次の通りであると言う。「奇蹟的であるが、貧しい誕生」、「衆人にぬきんでている」、「超自然的な力を発揮する」、「邪悪との闘争と勝利」、「傲慢さのために失脚ないし重大な過誤に陥る」、「詐謀にかかり、または自己犠牲による悲劇的死」。こうした要素が、そのままぴったりとサムソンの物語には当てはまるのである。

倫理的に見れば、このサムソンというキャラクターは、決して手放しでは褒められない人物だろう。しかし「聖人君主」だからといって、人は、その人物に尊敬の念は持つだろうが、魅力を感じたり、憧れを抱いたりはしない。ましてや文学の世界では、自由奔放な筆の力が大きくものをいう。作家は、最初には、自分が意識的、主体的に文章を書いているが、その内に作品自体が生きているもののように変わり、作中の人物が勝手に動き回り、作家は自分で書いているにもかかわらず、書かされているような状態になって来るのだと言う。そういう作品ほど、後に「名作」の評判を取るそうである。

この章は、サムソンの物語の序章であり、彼の出生の秘密が語られている。子どもは、身近にいる大人にも、自分と同じような「子ども」の時代があったことを知って、驚くのだという。大人はみんな、最初から大人であり、自分とは全く違う存在なのだと考えているという。子どもと大人の間には、断絶があり、深淵があり、そこを何らかの方法によって飛び越して、人は大人になって行く、というのが、古代人の思考である。

だから人間とは、「大人」を指すのであり、子どもは、小さな人として、人間の部類には入らない。だから古代文学では基本的には、「子ども」は描かれることは少ない。英雄の伝記、物語も、基本的には、大人時代から記されるのが通例である。但し、聖書の記述は異なる。長々とサムソンの出生にまつわる話を記し、英雄の生涯のプロローグを事細かに記すのである。やはり聖書は、人間をトータルに見ようとしていると言えるだろう。

やがて生まれて来る赤ん坊は、「生まれる前からナジル人として、神にささげられている」と語られる。「ナジル」とは「聖別される(ナジール)」から派生した言葉で、「修道士、あるいは出家者」のような意味合いの用語である。普通、神に誓願をかけて、そのようなものとなるのだから、いくつかの制約が課せられた。1.生食であれ、乾物であれ、ジュースであれ、酒であれ、ぶどうは決して口にしない。2.死者、死体に触れない。3.髪の毛を切らない。ナジル人となったその人が、他の人と違う立ち位置にいることを明確にするためである。やはり「聖なる人」である。皆と同じでは格好がつかない。神に誓願をかけるだから、一般人とは見た目も、生活も、ふるまいも、一線を画さなければ、ということである。

普通「聖別された人」というとどんなイメージを思い浮かべるか。世にいう聖人君主とは、どんなスタイル、風体の人だろうか。因みに、ロシア正教会の司祭は、「ひげを生やすべし」という伝統的な決まりがある。だからひげの薄い人は、どんなに熱意や能力、努力をしても、司祭にはなれないのである。また、相撲取りも、「まげ」が結えなくなったら引退するという決まりがあると聞いたことがある。ただナジル人の風体は、見る人に異様に映ったことだろう。サムソンは生まれる前からのナジル人で、デリラに騙される前まで、髪に剃刀を当てることはなかった、と伝えられる。外見は怪力無双の、ロン毛の大男だったろうから、彼に出会った人は、言われなくてもソーシャル・ディスタンスをきちんと守ったことだろう。

サムソン物語の内、この章は、昔からクリスマス前に読まれることになっているテキストである。それは、3節「主の御使いが彼女(マノアの妻)に現れて言った『あなたは身ごもって男の子を生むであろう』」、このみ言葉が、イザヤの預言の言葉を彷彿とさせ、後のマリアへの、天使ガブリエルによる受胎告知を思い起こさせるからである。この破天荒な、波乱に富む、尋常ではない奇天烈な人生、決して「幸い」とはいいがたい、悲劇的な最期を迎えたひとりの人物について、皆さんはどう判断をするだろうか。業績や遺徳、功績等について、おそらく、万人の目が等しく認め、称賛を与えるというものではないだろう。もはや人間的な基準、物差しでは計ることができない、それこそが「英雄」の英雄たるゆえんであろう。

但し、彼もまた、神ならぬ、一人のただの人間であり、女から生まれた者なのである。そして神は、計ることの出来ない、不思議なご計画によって、すべての人をこの世に誕生させ、地上での生涯を与えられる。救い主、主イエスもそのひとりとして、この世にお生まれになった。私たちと同じ人間の姿になり、愛に生きられ、私たちを深く慈しまれた。すべての生命には、神のご計画が満たされている。主イエスは「十字架で」地上での生涯を終わられた。何という悲劇、悲惨であろう。しかしその悲惨、痛ましさによって、神は私たちへの救いの道を開かれるのである。

「事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか」、大正14年の夏に開催された、箱根芦ノ湖での夏期学校で、内村鑑三は聴衆にこう問いかけた。「それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う」。内村鑑三『後世への最大遺物』。

サムソンの誕生を伝えたみ使いの名は「不思議(ミステリ)」であるという。天使は神のミステリを伝え、告げる働きをする。今もそれは変わりない。このクリスマスを通しても、神は、ご自身のミステリを告げ知らされるのである。