主日礼拝「ここで別れよう」創世記13章1~18節

先ごろ、兵庫県で、山中の行方不明者の捜索をしていた警察犬が、自ら逃走し、行方不明となって自分の方が捜索された、とのニュースが伝えられた。どうも匂いを追っている内に、右左どちらか方向が分からなくなり、パニックになって逃げ出した(職場放棄)のかもしれない、という。逃げ出したはいいがリード(首輪の綱)が枝に絡みついて、身動きが取れなくなり、「くーんくーん」と悲しげな鳴き声を出しているところを、めでたく発見されたらしい。巷では「警察犬」は、どんな犬でもなれる訳ではなく、エリート中のエリートなのに、という声がささやかれている。

こういう実験があるそうだ。行き止まり道の突き当りに、左右の道が拡がっている。どちらに曲がる人が多いだろうか。皆さんだったらどちらに曲がるだろうか。統計では、圧倒的に「左」であるという。実に70%もの人が、左に曲がると言うのである。また、真正面から人やものが突然現れると、なぜか人は左側に避けようとする傾向があるそうだ。陸上のトラックも、左回りで競技する。理由として、脳の構造(利き手利き足)のよるとか、心臓の位置によるとか、いろいろ推測されている。

人生には、いくつかの大きな分岐点がある。「就職」などはその典型的な選択だろう。そこで質問だが、A「やりがいはありそうだが、年収が低い会社」とB「やりがいはあまりなさそうだが、年収が高い会社」があったとする。皆さんならどちらを選ぶだろうか? 京セラの創業者で、日本航空の再建も手掛けた稲盛和夫氏によると、自分ならAを選ぶという。理由は「やりがい」とは「心の報酬」だからであるという。確かに、やりがいのある仕事を成し遂げれば、心が満たされ、幸せを感じることができるだろう。確かに、人間の物欲には際限はないため、報酬の額だけで満足感を得るのは、難しいだろうとは思うが、現実には、こんな「AかBか」などという単純な選択は、立ち現れないだろう。

今日は、創世記13章から話をする。メソポタミアのハランから、共に旅をして来た甥のロトとの別れの場面である。子どものいないアブラハムにとっては、若いロトは、息子の如くだったに違いない。聖書は、人と人との出会いの大切さと共に、別れの大切さをも、深く語る。生き別れ、死に別れ、と別れはいろいろあるにしても、それが人生の重要なエポックであることに間違いはない。聖書ではそもそも「別れ」こそが、人間の人生を新たに造っていくものだと考えているようだ。創世記には「人はその父母を離れ(別れ)、妻と結ばれ」語られるが、「別れ」という経験なくしては、新しい出会いも、その人本来の歩みもできないと考えているようだ。

そもそもアブラハムとロトとは、どうして別れることとなったのか。6節「その土地は、彼らが一緒に住むのは、十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかった」。財産が多くなったことで、「争いが起った」というのである。まだ家族、一族郎党が貧弱で、貧しい内は、争いは起きなかった。豊かになった時に、互いにいさかいを起こし、争うようになったと言うのである。「貧しさや欠乏」あるいは「不幸」が和らぎを生み出し、「豊かさ」と「幸福」が不和といさかいを生み出す、とは人間の世界の皮肉でもある。

なぜそうなるのか。聖書は端的にこう語る。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れる」(申命記8章12節以下)。豊かになった時に、心が高ぶり、人は神を忘れる、というのである。欠乏の中では、すべて自分の手にしているものは、神からの贈り物で、恵みであるのに、豊かさの中では、すべて自分の力で獲得したように錯覚するのである。恵みの贈り物は、有難いもので(つまりあたりまえではない)、自分だけのものではないから、皆で分かち合い、譲り合い、共にいただくのである。ところが自分の力でつかみ取ったものならば、びた一文、誰にも渡すことはできない。「神を忘れる」とは、自分が神になることであり、己が腹を神とするのである。

ロトよりもはるか年長のアブラハムには、こうした人間の本質に対する知恵と洞察が、備わっていたのだろう。年若いロトに「別れ」を申し出る。相手との距離を取ることも、また「愛」の具体的な形となる。身近であればある程、関係が深ければ深いほど、何程かの距離が必要であり、そこに「距離に耐える愛」が求められるのである。「共依存」は、ついには相手への失望に変わり、さらに憎しみに変わるだろう。しかしアブラハムの別離は「訣別」ではない。この後に、ロトが窮地に陥って、真に生命の危機にさらされる時、アブラハムは迷わず、ロトの家族にために救援に駆け付ける。独立とか自立とかは、誰の力も借りずに生きることではない。人間は子どもでも大人でも、幾つになっても、力を貸し、支えてくれる存在が必要なのだ。それは当たり前のことではなく、ありがたいもの、その有りがたさの中で生かされている、これを知るのも、「別れ」を知るからなのである。

「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」。ここにアブラハムの優柔不断を見る向きがある。相手に先に選ばせて、つまり恩を着せて、心理的に優位に立ち、自分は決断しようとしない。そうかもしれないが、年長者らしく気前の良さを示して、若い甥への励ましを示そうとしたのではないか。別れは致し方ない、どうしても別れなければならないのなら、「左様ならばそうならば」、別れるべきなのである。それでも心がすれ違ったままで、わだかまりの中で別れたくない、というのも人情である。アブラハムもそのような心で、ロトの傍らに立っているのであろう。

その申し出を受けて、ロトは高殿から道の行方を見晴るかす。10節「ヨルダン川一帯の流域の低地一帯は、主の園のように、見渡すかぎり良く潤っていた」。遠目にも土地柄の優位さは一目瞭然であった。ロトは迷うことなく、低地の町々に住むことを選んだ。尤もな決断である。選択の優先権を与えたアブラハムは、生活の条件面では劣る高地に、必然的に住むことになった。「こうして彼らは左右に分かれた」。そして「別れて行った後に」、主はアブラハムに語られたという。

聖書においては、人と人との「別れ」の場面がいくつも語られるが、そこで共通して強調されていることがある。仲違いや衝突、破綻によって、利害をめぐって、運命や宿命として、今までの関係が終わり、断ち切られたところで、もう一つの関係が語られるのである。それは神と人との関係である。一つの別れによって、神は新しい関係を生み出される。人との別れによって、神が語られるのである。

こんな話を耳にした。故郷の実家を訪れた作家の柳田邦男さん、亡兄のお嫁さんが毎日、朝食がすむと新聞を1面から社会面までじっくり目を通しているのに気づいた。「どうしてそんなに熱心に読むの?」と尋ねると、亡くなった夫との約束だから、という。73歳で旅立った柳田さんの兄は、7歳年下の妻にせめて自分と同い年まで生きてほしい、と言い残したそうだ。そして、いつかまた再会した時、「町や友人、知人がどうなったか、世界や日本でどんなことがあったかを教えてほしい」とかねがね語っていたのだという。いつ天国に行っても、ちゃんと報告できるようにしておこう、と新聞をめくっていると、亡夫がそばにいるように思えるのよ、と兄嫁は言う。柳田氏は、今を生きることが、もういない人によって支えられていると気づかされる。すでに他界した、もう見えない人とも、私たちは共に生きているし、その見えない離れ離れの人によって、支えられている。そしてその先に、あるいはその隣に、主イエスがおられる。主イエスは、「わたしの名によって、あなたがたの内、二人、または三人が集まっているなら、その中にわたしもいる」と言われた。今は離れ離れでも、主イエスがその間におられて、絆を繋いでくださる。

14節「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。(中略)さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい」。アブラハムは自分が歩もうとする道、ロトの選択した道からすれば、人間的には、条件の悪い、劣った苦労する道に見える。しかしその道は、実は、神が豊かに祝福し、広々と広がりのある道なのだ。神は言われる「さあ、目を上げよ、縦横に歩き回れ」。どこにいったところで、神の祝福から逃れることはできない。