祈祷会・聖書の学び 創世記41章46~57節

最近「集中ボーナス」という言葉を耳にした。コロナ禍で不況の世の中、政府が国民に集中的にボーナスを分配して、不景気の危機を乗り切ろうと言うことか。この言葉の意味は以下の通り。

「集中ボーナス」という学術用語がある。まだまだなじみは薄いけれど、米国の2人の行動経済学者が共著「いつも『時間がない』あなたに」(早川書房)で紹介した理論である。学生に3本の論文の校正を依頼した。与えられた時間は3週間。報酬は見つけた誤りの数と、期限までに終わるかどうかで決まる。第1グループは3週間後に全部まとめて提出してもらう。第2グループは毎週1本ずつ校正を済ませてもらう。果たしてその結果は?。時間の不足を強く感じる後者の方が、締め切りに遅れることが少なく、誤字もたくさん見つけた。また別の買い物クーポンの実験では、顧客に有効期限のないものと、期限付きのものをそれぞれ送付した。すると期間が限られた方の使用確率が有為に高かったという。どうやら人間は、時間のみならずあらゆる種類の欠乏感を源泉に集中力を発揮する。それが生産性を向上させ、行動力を前向きに変えるらしい。(「越山若水」10月20日付)

簡単に言えば、時間でも資金でも、余裕があると、まだまだ大丈夫と思って、人間、なかなか本腰を入れない、あるいは重い腰を上げない、ということか。

現代社会では「危機管理」の大切さが強調される。危機が発生した場合に、その負の影響を最小限にするとともに、いち早く危機状態からの脱出・回復を図ることである。ここ数十年、この国は激甚災害に見舞われて来た。さらに今年は、世界中でコロナ禍に見舞われている。災害そのものよりも、それに付随して起きる突発事態やパニックにどう的確に対処するか、国や政府ばかりか、私たちの課題でもある。

ところが現代はもう一つの「管理」が強調されている。「リスク管理」(Risk Management)その基本は、想定されるリスクが「起こらないように」、原因となる事象の防止策を検討し、実行に移すこと。想定されるあらゆるリスクを徹底的に洗い出し、そのリスクが発生したらどのような影響があるかを分析する。そして、それぞれのリスクについて発生を抑止するための方策を検討し、影響度の大きさに従って優先順位をつけて防止策を実行する。つまり、リスクを予め抑え込んでしまうこと、である。但し、言葉にするとその通りなのだが、これを本当に自ら実行しようとすると、本当に何ができるのか、途方に暮れる。

兄たちに妬まれて、奴隷としてエジプトに売られたヨセフ、かろうじて生命は守られたものの、冤罪によって牢獄に捕らえられている。いくら才能が有り、人よりも能力が秀でていても、安楽で幸せな一生が送れるわけではない。投獄されて、ヨセフは忘れ去られた。しかし苦難の中に置かれても、それは神の罰ではないし、自分の人生への呪いでもない。不条理な彼の運命を変えたものは、かつてヨセフが「夢の解き明かし」によって、その生命を救った給仕長の記憶であった。エジプトの王ファラオのみた不可解な夢を、側近たちは誰も解き明かせない。その話を耳にした給仕長は、かつてのことを思い出す。自分もあの時、あのヘブライ人の囚人の「夢解き」によって、生命が助けられた。忘れることは、人間の大事な能力だが、思い起こすこともまた、大きな力となる。この世の中で「忘却と想起」の大切さを、その人生経験で聖書の民は良く知っていた。人間には、忘れる力と思い出す力がある。経験の一切合切、そのすべてを忘れず、いつも思い起こすならば、とてもじゃないが、やり切れないだろう。「長く生きれば、恥多し」。しかし、これだけは忘れてはならない、忘れたくない、ということもある。この2つを二つながらに生きて行こうとしたのが、聖書の民である。そしてこの二つのこと「忘却と想起」を、信仰の事柄として、神に祈り求めたのである。「神が人間の諸々の罪に目を留められて、それをひとつ一つ論い、責任を追及されるならば、私たちは生きることができません」つまり、「わたしの罪を忘れてください」と求めるのである。しかし、同時に「罪の深い淵に飲み込まれる時に、わたしを思い出してください」と願うのである。随分虫のいい、自分勝手な祈りと思われるか。こんな我儘な祈りを、神は聞いてくださるのか。

主イエスが十字架に架けられた時に、右左に強盗が同じように十字架に架けられたという。一方の強盗が、「キリストならお前自身を救い、わたしをも救え」と罵る。もう一方の強盗は、「あなたが、栄光の内に挙げられるときに、わたしを思い出してください」と語る。主イエスはそれに答えたという。「あなたは今日、わたしと共に、楽園にいるだろう」。皆さんに尋ねたい。「今日、わたしと共に楽園にいる」と語られたのは、どちらの強盗に対してだろうか。右か左か。3本の十字架は、同じところ、同じレベルに立てられている。主イエスもまた「忘却と想起」の中で、私たちとふれあうのである。

ヨセフもまた、「忘却と想起」の中で、人生が展開して行く。50節以下に、彼自身の「忘却」と「想起」が語られる。二人の子どもをもうけたことで、彼は「神が忘れさせてくだった」、と告白し、さらに「神が悩みの地で、増やして(恵み)くださった」つまり神の恵みを思い出したと言うのである。人間は忘れる、しかし思い出す。ここに人間の生きる営みの根幹があることを、ヨセフ自身に語らせている。

ヨセフは見事、ファラオの不可思議な夢を解き明かす。その功績が認められ、エジプトの「リスク・マネジャー」の務めに任じられる。この仕事は、「災厄が襲ってから、その危機に対処する」のではなく、「危機が起こる前に、危機を見越して、それを回避する方策を構築する」ということだから、確かに大変な役割である。人間、見える危機に対しては積極的に対処しようとしても、見えない危機に対しては、安穏としているものである。

すぐには起こらないだろうと言う内に、エジプトに7年の飢饉が訪れる。その前に7年の大豊作がある。これは飢饉に対処すべく、神の与えた隠された恵みなのである。大抵、人間はこの隠された恵みを、無駄遣いする。今が順調なら、未来もまた順調であろう。ところがヨセフは7年の豊作の後の、干ばつによる大飢饉を予見していた。なぜ彼に、ファラオの「夢の解き明かし」ができたのだろう。

前回、37章でヨセフが兄たちの妬みを買って、奴隷としてエジプトに売られる個所を読んだ。そこに何気ない、挿入句のようなひと言がさりげなく記されていた。「その穴に水はなかった」。水がなかったからこそ、彼は殺害を免れることができた。ところが水溜用の穴に水がない、とは何を意味しているか。本来、水が溜まっているはずのところに水がない、それは干ばつの前兆なのである。投げ込まれたことで、彼は身をもって、将来、遠くない時期に、干ばつが起こるだろうことを知っていた。「夢解き」というおとぎ話のような話の裏側に、こうしたリスク・マネジメントの知恵が、語られている。今も、こうした世界の危機に、わずかな兆候に反応して、警告する心と知恵ある人たちが多くいる。本当に私たちもまた、現代のヨセフの言葉に、耳を傾ける必要があるのではないか。