主日礼拝「わたしは、初め、終わり」イザヤ書44章6~17節

英語の諺に「終わり良ければすべて良し」という言葉がある。もっともこれはある有名な作家の著した戯曲のタイトルに由来する。シェークスピアの手になる劇作のひとつであるが、題名にもなった台詞が、お芝居の「締め」に語られ幕は閉じられる、非常に気が利いているので、いつしか諺のように人々の口に上るようになったという。

この言葉は、「いろいろすったもんだや紆余曲折はあったが、何とか収まる所に落ち着いて結構なことだ」、「雨降って地固まる」というような意味合いとして捉えられてきた。と

ころが今では、「結果さえ良ければどうでもいい」という意味で、「結果オーライ」手段は択ばず、という具合に、いささか強引な手法の弁明のように用いられる場合が多い。

「結果を出せ」と成果主義が幅を利かせる世の中ではあるが、「終わり良ければすべて良し」という考えに、皆さんは納得されるだろうか。ある心理学的な実験があると言う。被験者を2つのグループに分け、最初のグループには不快な騒音を大音量で8秒間聴かせる。もう一方のグループには、最初のグループと同じ騒音を8秒間聴かせた後、「いくらかマシな音」をさらに8秒間聞かせた。その結果、最後に「マシな騒音」を聴いた2つ目のグループのほうが、1つ目のグループよりも不快度が低かった。「ピーク・エンドの法則」と呼ぶらしい、最後の「マシな騒音」の印象が強く残り、結果的に全体の不快度が低くなったものと考えられるのだという。最後が「いい印象」だと全部が良く思えて来る。大盛況の遊園地で、何時間も列に並び、待たされた挙句、乗り物に乗るのはたった5分、それでもまた来たいと思うのも、同じことだと言う。最近「終活」がいろいろ取りざたされるのも、人生の最期を、ピークにするための知恵である。

さて、今日はイザヤ書から話をする。そろそろクリスマスを迎える心構え、準備をしましょうということで、旧約の様々な個所が取り上げられる。メシア(キリスト)について語られるみ言葉に触れようというのが、この時期の聖書的課題である。その中でも、イザヤ書は別格である。それ程、キリストの誕生についての「啓示」とみなされる言葉、いわゆる「メシア預言」を、教会はイザヤ書の中に見出して来たのである。

6節「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない」。この言葉が元になって、ヨハネの黙示録には「主イエスはアルファ(ギリシャ語アルファベットの最初の文字)であり、オメガ(最後の文字)である」と記される。教会やミッションスクールの礼拝堂には、このギリシャ語の「α」と「ω」の文字が記されているのを見かけることがある。これは今日のイザヤ書のみ言葉を、シンボライズしたものである。

「始めと終わり」が、兎角気になるのが人間というもの。天文学者は、この広大な宇宙の成り立ち、初めと終わりを一所懸命探ろうとしている。「初めもなく、終わりもない」というのが取り留めなくて良いようにも思えるのだが、永遠に堂々巡り、これをカッコつけて大仰に「永劫回帰」等と呼ぶ向きもあるのだが、これもまた落ち着かない。すべての物事には、始まりがあり、初めがあるならば、終わりもある、まっすぐ正直な洞察であろう。

確かに人間の生涯も、誕生という「初め」と、死という「終り」によって枠づけられている。ある人が、「人間は誕生と死との間の、カッコの中でだけ生きる存在だ」と言ったが、さもありなん。「誕生」と「死」、つまり自分の「初め」と「終り」は、自分の人生でありながら、自分の自由にはできないものなのである。自分の人生でありながら、自分の手の内にはない。「どこから来て、どこに行くのか」は、はっきりと教えられていないし、生きる中で確かに知ることもできないのである。そういう人間の限界づけられた人生だからこそ、人間は「初め」と「終り」を殊更に見極めようとするのである。

だから「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない」というみ言葉は、生きている人間が決して知りえない事柄を、神は確かに知っておられる、という信仰告白としても理解できるだろう。神は「私」という人間を、「私」以上に深く知っておられる。人生の始まる前も、死んだその後も、なのである。これは私たちに、豊かに慰めを与えてくれる。私が生まれてきたのも、死ぬのも、いわば神がそう図られたからである。

ある患者が医師にいろいろ苦しみを訴える。「なぜこんなひどい病を背負うのか、なぜこんなに苦しまなければならないのか」、患者の正直な心の訴えだが、こういう病気の意味について問われても、医師は答える術は持たないだろう。それでも患者があまりにしつこく尋ねるので、ある医師は仕方なく「何者かのアレンジメントだと思って、受け入れなさい」と思わず語ったそうである。

但し、非常に素朴な疑問が湧いてくる。神は確かに「初め」であり、「終り」であるだろう。それならば途中、プロセスには何をしておられるのか。ただ傍観者のように、何もせず、手をこまねいて黙って見ているだけなのか。ただ横にいて、黙って見ている、「見守る」という行為がある。例えば、小さな子が初めて包丁を使う。包丁は刃物で危険だから、生命の安全のために使わせない、という態度も必要であるが、それだけではいつになっても料理を作ることはできないだろう。慣れない不器用な手で包丁を握り、危なっかしい手つきで、野菜を刻む。あれこれ口を出さず、すぐそばにいて、子どもの姿をしっかり見ている。これが「見守る」ということである。これは楽な作業であろうか。少なくとも「気楽」ではない。怪我をするかもしれない、危なっかしいたどたどしいその手から、危険な包丁を取り上げたい、その気持ちとの戦いの大変さ。

ヘブライ語の文法には、興味深い法則がある。対照的な言葉が、2つ並べられるときに、「善と悪」「男と女」そして今日のテキストの「初めと終わり」のように、真反対の言葉が並置される時には、それは「間」「経過」が強く意識されているのである。どういうことか。「善と悪」という時、2つのものを区別や仕分けするのではなく、「善から悪まですべて」、即ち善と悪の間にある「灰色の部分」まで問題にするのである。「初めであり、終わりである」とは、「初めから終わりまでの全ての間、全期間」という意味になる。

「しんがり」という言葉がある。「一番後ろ」を指す言葉である。鷲田清一氏『しんがりの思想(反リーダーシップ論)』によれば、「誰かに犠牲が集中していないか、リーダーが張り切りすぎて皆ついていくのに四苦八苦しているのではないか、そろそろどこからか悲鳴が上がらないか、このままで果たしてもつか、といった全体のケア、各所への気遣いと、そこでの周到な判断」をすることが「しんがり」の役割だと言う。神はそのようなしんがりを務められる初めの方である。

11月ともなると、だんだん気ぜわしくなる。テレビでも、今年もあと二か月です、と言う言葉が語られる。段々クリスマスを意識し始めるこの時期に、もっとも大手のパン屋は9月に入ると、早やクリスマス・ケーキの仕込みを始めるという。冷凍技術の発達が、そういう芸当を可能にした。今日の個所を補うかのようなみ言葉が、イザヤ書に記されている。52章12節「しかし、急いで出る必要はない/逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから」。兎角、あたふたじだばたの人生の歩みである。しかしこのみ言葉を味わうなら、また人生にゆとりが生まれよう。私の人生を始められたのは、そもそも神であり、その人生の行く先、さらにその先をも、神は私を連れて行かれるであろう。急いで出る必要もないし、逃げ去ることもない。