主日礼拝「光が射し込んだ」 マタイによる福音書4章12~17節

皆さんは「虹の色は?」と聞かれたら、何と答えるだろうか・この国では広く7色と認識されており、色は赤・橙・黃・緑・青・藍・紫の順番で並んでいるとされている。これは、万有引力の法則で有名なニュートンが発表した考え方であるという。この国の理科教育の賜物ということか。しかし、様々な国で、虹の色について調べてみると、共通して7色と考えられている訳ではない。南アジアのある国では、2色、台湾では3色、ヨーロッパ、ドイツでは5色、アメリカでは6色、アフリカのある国では、8つの色があると考えられているという。同じ自然現象である虹も、国によっていろいろなイメージや発想がある。

人間は、物事を理解、把握するのに、「色」でイメージしたり、区別する方法を取ることがある。かつては男の子の色、女の子の色、などで色の区分が行われていたが、今は小学生のランドセルの色は、正に彩とりどりである。学校にもイメージカラーがある。ある学校は黄色、ある学校は白、因みに私が卒業した学校は、ブルー。また卒業後、労した学校は、赤紫であった。では今の皆さん自身を、色に喩えたら、何色になるだろうか。

今日は、マタイ福音書の4章12節以下を共に読もうとしている。先週、このパラグラフに続く、「弟子の召命」、「大勢の病人に対する癒し」の記述を扱った。話す順序が逆ではないか、と思われるかもしれない。今日の個所は「主イエスの宣教の開始」を告げる内容である。他の福音書は、「悔い改めよ、神の国は近づいた」という主イエスの宣言を中心に、非常に短くまとめている。ところがマタイだけは、旧約の預言書の言葉の引用を行い、少々長めのプロローグを記すのであるが、どうしてか。

マタイは、主イエスの公生涯、即ち、自分から出て行って、弟子を招き、町々を巡り、大勢の病人を癒された、という聊か常識外れの活動、そしてその歩みは、ついに十字架での苦しみに連なって行くのだが、なぜこの方は、そんな(常識外れの)人生を歩まれたのか、そしてその方に出会った私たちにとって、何がもたらされたのか、という二重の意味を、まずここで語ろうとするのである。

ここにたくさんの地名が記される「ゼブルン、ナフタリ」、これは「ガリラヤ」という地名の古い呼称である。そしてガリラヤ湖周辺の主要な町のひとつ「カファルナウム」は、主イエスの宣教の拠点、足場であったのではないか、と聖書学者は推測する。なぜ「キリスト」は、そこで、ガリラヤ湖の周辺地域で、もっと言えば、なぜそんな呪われた場所で、宣教なさったのか、これは初代教会が人々から問われた問いだったのである。マタイはこの問いに答えることで、主イエスの宣教の意味を明らかにしようとする。

旧約のイザヤ書8章23節、古の預言者がこう語る。「ゼブルンの地、ナフタリの地は、辱めを受けた。即ち、ガリラヤは異邦人の地と呼ばれるようになった」。預言者イザヤの活動した紀元前8世紀後半、分裂した聖書の国のひとつ北王国が、アッシリアによって滅ぼされ、主だった住民はアッシリアに捕囚として連れ去られた。その代わりにアッシリアは、滅ぼした北王国の地に、多くの外国人を入植させたのである。民族的、文化的に、ここは様々な人が入り乱れて暮らす地域となったのである。アメリカは人種のるつぼと言われる。しかしそれは正確ではない。「るつぼ」なら個性的なもの、独自なものはみなひとつに溶け合うことになる。しかし人間の個性や生活様式は、簡単にはひとつに溶け合うなどということはない。「人種のサラダボール」という表現も使われるが、この時代のガリラヤは、正にそんな感じだったろう。おまけにカファルナウムには、ローマの軍団の駐屯地も置かれていた。ローマ人たちは、その町の近くに温泉の泉源があるのを発見し、早速、嬉々として温泉地開発を行ったが、昔からにそこに住む人たちは、温泉にはあまり魅力は感じなかったらしい。

ユダヤの保守的な人々は、やはり外国人が多く居住し、外国との境界域に位置するガリラヤを、穢れや呪いを受けた暗闇の地域として嫌悪感あるいは憐憫をもって受け止めていた。そういう心情から出た言葉が、なぜ「メシア(救い主)」ともあろう者が、そんな辺境の地、見捨てられた活動するのか、なのである。マタイはこれに預言者イザヤのみ言葉をもって、答えるのである。このみ言葉が、メシアをガリラヤへと送り出し、ついに十字架への道に導くのであると。

「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」は「死の陰の地」であり、そこには「暗闇に住む民」の地であるという。しかし、これは、歴史的、地理上のどこかの場所を指す言葉なのではない。ユダヤのあの時代、異邦の人々が、外国人が多く住んでいる町のことでも、偶像がひしめき、道徳的に堕落をした都のことでも、辺境のおよそ人気のない田舎のことでもない。そうではなく、悔い改めを叫び、生の方向転換を叫ぶバプテスマのヨハネを、邪魔者として捕らえて、獄に投げ込み、真実を覆い隠して、素知らぬ顔をして、すましている者たちが住む所はみな、「暗黒に住む民、死の陰の地」なのである。私たちもまた、悔い改めを軽んじるなら、暗黒の民、死の陰の地に住む者なのである。

しかしイザヤの語ったみ言葉は、決して大いなる裁きで終わる預言ではない。「暗黒に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込む」のである。私たちは暗闇の中で手探りでうごめき、ただどちらに行けばいいのか、戸惑い立ち往生し、身もだえしているばかりで、見捨てられるのではない、というのである。大きな光がそこに照り、光が射し込む。この古の預言の言葉通り、キリストは、ナザレのイエスは、ローマ軍が駐屯するカファルナウムで語り、みわざを行われるのである。

「悔い改めよ、天の国は近づいた」。この「近づいた」という言い方は、正確に訳すなら「近づきつつある」という動的な時制が用いられている。こんな風に喩えられようか。駅のホームで電車を待っている。列車が間もなく到着するというアナウンスが入る。すると乗客はみな、まだ電車が見えない内に、乗り込む準備を始めるではないか。荷物を持ち、白線の後ろに下がり、ドアの開く位置に並ぶではないか。まだ電車は見えないのに、レールは電車のやってくる音を告げ始める。神の国は見えない、だから信じられないと人は言う。しかし主イエスによって、到着のアナウンスは告げられて、そのみわざによって到着する列車の響きは、確かに聞こえるではないか。今は、やって来つつある神の国の方向に、身体を向け、方向転換をする時なのである。

こういう新聞記事に目が留まった。今、首都圏では黒い服を着ている人が多い。女性向けのファッションサイトには「今季トレンドの黒」といった言葉が並ぶ。色は時代を映す鏡といわれる。日本流行色協会(東京都千代田区)の資料によると、1979年の第2次オイルショックや90年代のバブル崩壊の後には黒やグレーなどがはやった。同協会が昨年末インターネット上のアンケートで選んだ「2020年の色」も新型コロナウイルス禍の不安な気持ちを象徴する黒系のグレーだった。黒の流行はコロナの感染拡大という暗い世相の反映なのだろうか。(雷鳴抄1月13日付)。

色彩の「黒」は、すべての色が混ざった状態を表す。絵の具は塗り重ねれば重ねるほど、暗く重い色になる。光はその逆で、いろいろな色の光が集まると、白くなる。そして黒は、闇、光のない状態を意味している。現今の暗い世相に、簡単に火を灯せるようには思えない。暗夜行路の中に置かれたような私たちである。世界に人たちも同様であろう。しかし、聖書のみ言葉は、光の到来を告げる。ヨハネを殺した闇の勢力は、同じように主イエスを十字架に付けた。しかし、その十字架から新しい復活の命が沸き起こった。十字架からの光に、私たちは蘇るのである。