子どもの祝福礼拝「主が手を伸ばして」出エジプト記8章2~13節

こんな文章を目にした。巣ごもりがちな毎日を過ごし、体重計に乗ることが怖くなってきた。少しは健康に気を付けないと大変なことになると、重い腰を上げ運動を始めた。スポーツの秋でもあるとはいえ、思っていた以上に体を動かせない。張り切って始めたが、スポーツとはおこがましくて言えないほどだ。ジョギングをすれば数百メートルで息が上がり足が止まる。プールではわずかな距離で呼吸が乱れ、おぼれていると周囲を心配させたかもしれない。体力の衰えを嘆いた。すると、知人から「息を吐くことを意識するといい」とアドバイスされた。しっかり息を吐かないと、しっかりと吸えないという

きつくなればなるほど、焦って息を吸うことばかりを意識してしまい、逆に息苦しくなっていた。呼吸のリズムに気を付けてみる。劇的とまではいかないが、多少は走れて、泳げるようになってきた。大切なのはバランスなのだろう。呼吸のようにいつも無意識でしていることでも、つらく苦しい時に普段通りできなくなることは多い。仕事、勉強、人間関係に悩んでいるとマイナス思考に陥りがちだ。そんな時こそ、つらい思いを吐き出したい。ため込みすぎると息苦しさは増していく。スーハー、スーハー。深呼吸をする。いつも通りでいいと心を落ち着かせる。無理せず、できることからやればいい。そして、悩みを受け止めてくれる人は必ずいると信じたい。ため息も心を落ち着かせる効果があるという。しんどくなったら、たっぷり息を吐き出そう。(「日報抄」9.29)

「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった」。創世記2章の人間観である。人間は土の塵から形づくられた。だからすべての人間は、どんな人も、本来は、虚しい「土くれ」に過ぎない。しかしそこに、神が「命の息」を吹き込まれることで、人間は生きる者となったというのである。ヘブライ語に「人間」を表す言葉がいくつかある。「ネフェシュ」という用語は、「咽喉」とか「頸」とかいう意味だが、後に意味が拡大されて「人間」全体を表す用語となった。その部分は、生き物にとって生命を司る「急所」であり、家畜を屠る時には、そこを切り裂くのである。咽喉が裂かれることで、動物は息絶える。そこから「困窮した人間」、「弱くされた人間」というニュアンスで用いられる。人間は本質的に、土くれであり、困り果て、弱々しい存在なのである。ところがそこに神の息、生命の風が吹き込まれる時、人は生きた者となり強くされるのである。

先ほど引用した文章の中に「きつくなればなるほど、焦って息を吸うことばかりを意識してしまい、逆に息苦しくなっていた」、そして「ため込みすぎると息苦しさは増していく。しんどくなったら、たっぷり息を吐き出そう」。人間は苦しいと、たくさんの息を吸い込もうとする。焦って息を吸い込もうとする。人間の肝心要が「咽喉」にあると見抜いた古代ヘブライ人の慧眼に感服する。苦しいから頑張って息を吸い込もうとするが、却って息苦しさは増すのである。逆に、古い息を吐き出すことで、新しい命の息が吹き込まれる。人間が「ネフェシュ」であるとはよく見抜いたものである。普段、強くて当たり前、しっかりしてて当然、元気が普通と思い込んでいる。だが人間は、本来、困窮した、弱り果てた存在であり、それを誰かから、何者から満たしてもらわなければ、生きられないのである。

聖書の人々、ヘブライ人がエジプトで奴隷として、日々のつらい労苦に苦しめられている。神はこのうめきと嘆きを聞かれ、彼らの解放のためにモーセが遣わされる。5節「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す」。このような主のみ言葉を、モーセはイスラエルの人々に伝える。ところが民はどのように反応したか。9節「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。まったくモーセの言葉、神の言葉に、耳を傾けなかった、というのである。

そしてその理由が、「重労働のため意欲を失っていたから」だという。人間はあまりに痛めつけられ、圧迫されると、反抗や抵抗する心を失い、ただ今日の生存だけを願うようになる、と言われる。即ち、未来を失うと希望が奪われ、すると生きようとする意欲も失われる、つまり世の中や他人、ましてや神など、どうでもよくなるのである。

この「意欲を失って」と訳されている言葉が興味深い。直訳すると「息が短くされて」と訳せるのである。先ほどの文章の「きつくなればなるほど、焦って息を吸うことばかりを意識してしまい、逆に息苦しくなっていた、ため込みすぎると息苦しさは増していく」これが奴隷として生きるイスラエルの人々の姿なのである。奴隷であるから強制的にやらなければならないことに追いかけられる。ノルマが達成できなければ、罰や報復、恥が待っている。自分の力で何とか達成しなければならない、と焦って息を吸い込むのである。もはやゆったりと息をすることができない。ゆったりと息が出来なければ、ただ後ろから追いかけられるだけの、休むことが許されない苦役となる。

「そんな時こそ、つらい思いを吐き出したい。ため込みすぎると息苦しさは増していく。スーハー、スーハー。深呼吸をする。いつも通りでいいと心を落ち着かせる。無理せず、できることからやればいい。そして、悩みを受け止めてくれる人は必ずいると信じたい。ため息も心を落ち着かせる効果があるという。しんどくなったら、たっぷり息を吐き出そう」。皆さんはこの言葉に、聞くことができるだろうか。

聖書において息を吐きだすことは、それがうめきであれ、嘆きであれ、ため息であれ、息を吐くことは、「祈ること」に他ならないのである。どうしてそれが「祈り」に通じるのかと言えば、「息」とは元来、神によって吹き込まれた命の息であり、恵みの賜物である、それが口から吐き出され、神に帰るのである。吐き出される息が、祈りとなって神に帰り、また新しく神の命の息が吹き込まれ、私たちは生きる者となるのである。だから祈りの息なしに、私たちは生きることができない。エジプトで奴隷として生きて来たイスラエルの人々は、「重労働のゆえに、意欲を失くしていた」と伝えられるが、これは文字通りに言えば、「祈りを失っていた」ということである。祈りを失ったときに、私たちは神のみ言葉(これもまた神の聖霊の息吹である)、を新しく受け取ることができなくなるのである。

『ぞうさん』でおなじみの詩人まどみちお氏の作品に、『空気』という詩がある。「ぼくの 胸の中に/いま 入ってきたのは/いままで ママの胸の中にいた空気/そしてぼくが いま吐いた空気は/もう パパの胸の中に 入っていく/きのう 庭のアリの胸の中にいた空気が/いま 妹の胸の中に 入っていく/空気はびっくりぎょうてんしているか?/なんの 同じ空気が ついこの間は/南氷洋の/クジラの胸の中に いたのだ/一つの体を めぐる/血の せせらぎのように/胸から 胸へ/一つの地球をめぐる 空気のせせらぎ!/それは うたっているのか/忘れないで 忘れないで…と」。

人間の吐き出す空気、それは世界の万物、あらゆるものに経めぐり、神はその息を、ため息、嘆き、うめきを、祈りの息としてお聞きくださる。共観福音書によれば、主イエスが十字架上で亡くなられる時に、大声で叫ばれ、息を引き取られたと伝えられる。主イエスも叫び、息を吐き出して、最期を迎えられた。その吐き出された息もまた、めぐり巡り、私たちのいる場所に吹いて来るであろう。そのように「神は強い御手を伸ばされる」のである。神の命の息は、強い御手なのである。