祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙8章1~11節

イソップの寓話に「卑怯なこうもり」と題された物語がある。昔むかし、鳥とけものはどちらが偉いか、いつも争いをしていた。こうもりは、鳥とけものの戦いの様子を見て、けものの方が勝ちそうな感じがしたので、けものの前に姿を現して、「私はけものの仲間です。私には灰色のけがわとキバがあります」、そういってこうもりはけものの味方をした。しかし、争いは続き、けものが負けそうになると、今度は鳥の前に現れて、「私は鳥の仲間です。あなたたちと同じように翼を持っています。」そういって、こうもりは鳥の味方になった。そのうち、鳥とけものは争いをやめ、仲直りしたので、卑怯な態度を取ったこうもりは仲間はずれにされた。そのときからこうもりは、昼は暗い洞窟に身をひそめ、鳥やけものが寝静まった夜になると、外に出歩くようになったという。

「どっちつかずのあいまいな態度を取り続ける者は、皆の信頼を失い、相手にされなくなる」との教訓を語る話だという。政治家の中にも、状況に応じて、コロコロと巧みに態度を変え、優柔不断に振舞う輩が、少なからずあると評される。確かに変幻自在は世渡りの知恵なのだろう。戦国時代の武将たちも、誰の味方に付くかは、戦場の成り行きを見ていて、勝負の行方を見極めた後に、味方する側を選択したのである。

しかし、この卑怯なこうもりの姿は、実は人間の有様やふるまいを、つまり「人間らしさ」というものを、比喩的に語っていると理解できないだろうか。つまり人間はどっちつかずの生き物なのである。鶴見俊介氏は、人間は「自己破壊能力」と「自己犠牲能力」を2つながらに持つ生き物だという。前者は、他の人間や自分自身を、己が利益のために殺害することのできる能力を持っている、ということである。他の哺乳類で、こうした能力を持つ生物は極めて少ない。他方、誰か他の人間のために、自分が損をしても、自分の生命を犠牲にしてまでも、助け、支えようとする能力である。即ち、相矛盾する二面性を併せ持つことこそ、人間の本質だというのである。

ローマ書8章において、パウロは「肉」と「霊」という2つの側面から、「救い」の問題を語ろうとする。ギリシャ・ローマのヘレニズム世界では、「肉」と「霊」という二分法によって人間を理解しようとする傾向が強かったので、パウロもこれに倣ったということだろうか。相手のふところに敢えて飛び込んで、議論するというのも、一つの作法である。但し、「肉」と「霊」とを、単純に「身体(肉体)」と「精神(魂)」に当てはめて、「魂の牢獄」としての「肉体」という議論をしているのではないことに留意したい。

『コヘレトの言葉』の中に、「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ」(4章2節)というネガティブな文言がある。ギリシャの犬儒派の主張に、非常に近似する意味合いの言葉である。人間の魂は、もともとアルケー(真)の世界に住んでいた。それが牢獄のような肉体に、罰として閉じ込められている。そこで私たちの魂は、その牢獄の中で、真の故郷を慕い求めて、うめき嘆くのだという。

確かにこのヘレニズム的な人間論、霊肉二元論には、興味深い点が多くあるにしても、パウロはそういう見地から、人間の救いを語っているのではない。ユダヤ人のひとりであったパウロは、ヘレニズム世界で成長し、その教養を育んだと思われるが、やはりヘブライ的な人間観に強く親しんでいたのではないか。

旧約聖書では、人間は「土の塵」から取られ、形づくられ、その鼻に命の息を吹き込まれたという。そもそもヘブライ人にとって、「霊肉二元論」の思考は無縁なのである。確かに「心」や「魂」を表す言葉はあるが、それらは身体の臓器の一部分を指すのである。即ち、「心」とは「腸」ないし「心臓」であり、「魂」とは「咽喉」を指しているのである。彼らにとって思考の座は、頭ではなく腹であり、生命の座も、息が出入りする首や咽喉という身体の部分なのである。だから心と身体は表裏一体であり、身体が病めば、心も弱くされるし、息(生命)が衰弱すれば、身体も力を失うのである。そして息が身体から出て行き、元の出どころである神のもとに帰れば、身体は土の塵に戻るのである。

ここでパウロが「霊」と「肉」で指し示そうとしている事柄は、人間にはこれら二つの領域があって、いずれ滅ぶべき肉体ではなく、魂(霊)の救い、即ち「霊の不滅」こそが

人間にとっての救いであり、ついの目標である、ということではない。聖書は、人間を考える時に、つねに神との関係から捉えようとする。神から切り離されたところで、人間の救いも、人生の目的も意味のありえないのである。そしてパウロは、人間となった神、即ちキリストとの関わりのみを問題にするのである。ただ「救い」がひとえに人間だけで達成可能だとするなら、もはや神もキリストも不要であり、単なるお飾りになってしまうだろう。

キリスト教徒迫害の熱意に燃えてのダマスコ途上で、キリストに出会う前のパウロは、神への敬虔から、人一倍律法に忠実であろうとしたが、そうすれそうするほど、神から遠ざかるという矛盾を抱えることになった。なぜなら、「律法の遵守」に徹すれば、自分の力に頼るしかなくなるのである。「救い」にとって、神の力や働きは、もはや何の意味ももたなくなるであろう。これが「律法主義」の陥穽である。「共助」もなければ「公助」もなく、「自助」しかないところで、人は耐えることができるだろうか。

この章でパウロは、自分の努力で自分の救いを成し遂げようとすることが、「肉」と呼ばれるものであり、主イエス・キリストの恵みと神の愛、そして聖霊の働きに自らを委ねることを、「霊」と呼んでいるのである。5節以下「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と彼が言うように、ここには著者自身の人生経験が、強く反映しているのではないか。彼は、律法に精進することで、平安を得ることはなかったのである。

この章の冒頭で、1節「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と著者が非常に大胆に宣言しているように、要はキリストの十字架の恵みをどう受け止めるかにかかっているのである。すでに主の死によって贖われているのが、私たちの罪なのである。それも十字架での御子の死は、神のみこころであった。それでもなお、己の力と努力に拘泥し、それがなければ救われないと考えるなら、それは何と見当違いなばかりか、滑稽なことだろうか。いやはや人間は、すごくまじめに、すごく愚かなことをする生き物である。