子どもの祝福礼拝「道をそれて」出エジプト記3章1~15節

今日は、子どもの祝福礼拝である。各々、子ども時代の頃を思い出すのも良いだろう。皆さんの一番の想い出は何か。私は、幼稚園、学校帰りの道草の想い出である。幼稚園は自宅から歩いて数分の場所にあった。ある時、随分遠くにある友達の家までついて行く、という道草をしたことがあった。遊んでいたら夕方、ずいぶん遅い時間となり、当時は携帯などないから、随分、親を心配させたのだろう、帰宅したら親父からこっぴどく叱られた。家から遠くに行くというスリルが楽しかったのかもしれない。

最近『子どもの道草』という本が再刊された、2006年にわずか初版1000部ほど出版された学術書であるが、著者は大学の客員教授で僧侶の水月昭道(みづき・しょうどう)氏。著者の専門は、人の発達を促す環境について研究する人間環境学で、「子どもの道くさ」は福岡県内の小学校を対象にして、子どもたちの60種の下校ルートをフィールドワークした内容をまとめたものである。その子どもたちの様子をじっくりと観察し、「道草」の実態を「反応型」「注目型」「発見型」「規則型」「暇つぶし型」等9タイプに分類し研究報告をしている。歩きながら子どもは雑草を触り、石を蹴り、猫にちょっかいを出し、塀の上を歩き、秘密の抜け道を駆け抜ける。ある子は10分で行ける目的地に、道草しながら40分かけてたどり着く、実にいろいろな、ある意味では「創造的」行動をしていて驚かされるが、何となく自身かつてのおぼろげな記憶がよみがえる。

しかし出版当時、タイミングが悪いことに、下校途中に子どもが被害に会う事件が発生し、登下校の安全対策が大きな社会問題となっていた。水月氏のところには「子どもに道草をさせて危険な目に合わせるつもりなのか」「道草研究が何の役に立つのか」といった批判が寄せられたという。水月さんは「どういう具合に安全配慮すればよいか、などのアイデアも記しているのですが」と今でも困惑気味に語っている。「予定調和から外れた出来事を喜び自ら学ぶ。道草は子どもが輝く時間なのです」。この当たり前の日常の中で、決して当たり前でないことを発見して、学び、自分が変わってゆく、それが「道草」」だというのである。

さて、今日の聖書個所は、モーセの召命、神との不思議な出会いを語る物語である。エジプトにあって奴隷の民ヘブライ人の子どもとして誕生したモーセであったが、ファラオの凶刃を恐れた両親の機転によってナイル川に流されて、偶々とはいえファラオの娘に拾われ、エジプトの王子として成長する。ところがエジプト人の同胞を殺害したことが公になり、ミディアンの地に逃亡する。ミディアンの地は、弟殺しのカインの末裔たち、ケニ人が住み着いた場所と伝えられ、ヤーウェ信仰は、当初、彼らによって信じられていた宗教だという見解がある。その地で運命の紆余曲折によって、祭司エトロの娘たちと出会い、娘のひとりツィポラと結婚し、息子ゲルショムも授かり、しばらくの間、羊飼いに身をやつして、静かで平穏な生活が繰り広げられる。ところがその静かな日常の中に、神の招きの御手は伸ばされるのである。実のところ、神との出会いはどのようになされるものなのか、モーセの物語は、非常に巧みに描いていると言えるだろう。

その発端は、彼の連れていた羊が、勝手に荒れ野の奥まで入って行ってしまい、それを追いかけて神の山ホレブに来たことによる。「牛に引かれて善光寺参り」という諺があるが、旧約の場合、「羊を追って神の山参り」である。そこで彼は神ヤーウェ、その名を「わたしはある、わたしはある、あってある者」という不可思議な名を持つ神に出会うことになる。

神は言われる。7節「主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。エジプトからはるか遠くに離れ、静かで平穏な今の生活の中にあっても、モーセの心の中にはいつも、このイスラエルの人々、同胞の叫び、実の親、兄弟姉妹のうめき声が、響いていたのではないか。彼の耳には、いつもこの叫びが聞こえていたのではないか。直には、耳に聞こえない、その声なき叫び声が、絶えず彼の平穏を波立たせ、ゆすぶっていたに違いない。そして自分の心で聞いている、できれば思い起こしたくないあの叫びを、神自らが聞いておられるというのである。9節以下「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

そもそも、この大いなる運命の転換、神との出会いを起こした発端は何か、繰り返し語られる小さな言葉がある。それは「道をそれて」、道草をする、脇道へ入る、自分の道を曲げて、というようなニュアンスの用語である。なぜ「道草をしよう」なぞと考えたのか、それは、2節以下「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう』。」これこそまさに興味津々に、自分の周りの事物に目を輝かせる「子どもの道草」の心そのものではないか。水木氏の主張する「反応型」「注目型」「発見型」というカテゴリー分類そのままである。

「この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」、モーセが見たこの光景は、決して驚天動地のようなスペクタクルではない。極くささやかな、闇の中に小さな焚き火が燃えているくらいのものである。誰かがソロ・キャンプをしているのかという程度のものであろう。ところが、「いつまでも燃え尽きない」、神の招きの光、信仰の火というのはそういうものだろう。大きく燃え上がって、灼熱のように光り輝く、そんな大それたものだとしたら、そんなところに近づいたら、焼け死んでしまうではないか。偽りだから大きく見せ、燃え上がらせ、光り輝くようにあらわそうとするのである。真実ならば、そんなに派手に演出する必要はないだろう。教会の信仰の火は、盛んに燃え上がるというより、「小さいが、いつまでも、燃え尽きない」という不思議な火なのである。

この静かに照らす、燃え尽きない火のもとで、モーセは神に出会い、そしてみ言葉を受け、召命を与えられるのである。「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか』。神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。』道草の中で、モーセは今まで思ってもみなかった、神の臨在を知るのである。「わたしは必ずあなたと共にいる」、どこにいても、どんな時にも、いつでもどこでも。道を逸れてばかりいる、道草の歩みの中にある私と、神は共に歩んでくださる。

先に紹介した水木氏は語る「自分の町は硬い材質で作られているのか、潮の香りがするのか、緑に溢れた町なのか、子どもたちは五感をフルに使って自分の記憶の中にマップを作っていきます。その中でいつもとの違いに気づいたり、あるいはこの先は危ないというような動物的な感覚も養われていくでしょう。それともうひとつ大きいのが、地域の大人との交流です。フィールドワーク中、仲良しのパン屋のおじさんが病気になってしまいしばらく店を休業することになったんですが、子どもたちは自主的にノートを買ってきて閉じたシャッターにそれを貼り付け、『早く元気になって帰ってきてね!』などとメッセージを書き込んでいました。道くさすることで、地域にどんな大人がいて、その大人たちが自分を見守ってくれていることを肌で感じながら成長できる。そうして育まれた地域に対する信頼は、大人になっていく中で社会への信頼に繋がっていくのではないでしょうか」。

主イエスの歩みは、あてどなく、いろいろな所をぐるぐる経めぐるような、道草の旅である。飼い葉桶に誕生するその誕生の初めから、モーセも生命の危機を前にミディアンへ逃亡したのと同様に、ヘロデ大王の刃を避けるために、家族はエジプトへ逃避行を行う。そしてその公生涯は、弟子たちと共に、見知らぬ病気に悩む者、悪霊につかれたもの、貧しい人、やもめや子どもたちと出会い、ふれあい、深い愛のみわざで包まれたのである。主イエスはまさに「道草の人」であり、今も私たちに、道草の出会いの時を与えてくれる。主イエスと共に旅することで、私たちは思ってもみない不思議な、しかし温かな出会いを与えられるのである。