祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書4章26~29節

小さい子どもから教えられることは多い。幼稚園くらいの年頃の子がおいしそうにお菓子(ポテト)を食べている。「ひとつちょうだい」と言うと、必ず分けてくれる。大抵は、自分が今、口にしている食べかけのものをくれる。よだれつきである。皆はそれをどうするか。私の知り合いの幼稚園の園長さんは、「よき保育者の資質は、子どもの食べかけのお菓子を、ありがとうと言って何のためらいもなく、口に出来るかどうかです」、と言ったのだが。

なぜ子どもは、自分のお菓子を、素直に分けてくれるのだろうか。おそらく子どもは本能的に、親から大人、周りの人々から、生かされている事実を知っているのだろう。お金や食事をはじめ、生活の一切を、自分でどうにかすることはできない。ただ支え、与えてもらうことで、生きている、生かされていることへの感謝があるのだろう。

11月は収穫感謝礼拝が行われる。今年の夏も格別に暑かった。連日「熱中症」予防の注意喚起が行われていた。それに加えてコロナによるマスク着用である。私も頭痛や吐き気、少し体調の崩れに見舞われた。皆さんは大丈夫だったか。暑い夏も、人間の作り出した文明、産業や工業生産が深くかかわっているところがある。しかし人間は勝手なもので、夏になると「暑い暑い」と喚き、今度は冬になると、「寒い寒い」と文句を言う。しかしその暑さ寒さは、どちらも生命を左右する食物生産の基本に、深くかかわっている。即ち、作物の成長、そして「収穫」には、夏の暑さは、欠かせないものである。そして植物の生育収穫の準備には、冬の寒さも欠かせないものなのである。

今から30年近く前、この国で全国的に米が実らなかった年があった。平成の米騒動と呼ばれた。それが生じたのは、その前年、フィリピンのピナトゥボ火山が大噴火を起こしたからである。噴煙や、噴火で飛散した大量の灰や粉塵が、日本の空をすっぽりと覆い、夏に気温が上がらなかった。所謂「寒い夏」のせいで、日本のお米が実らなかったのである。その年は、やはりこの国の人々に、いつもごはんを食べられることへの感謝、収穫というもののありがたさ、不思議さ、当たり前ではないと言う思いが、心に生じたように思う。

今日の聖書の個所は、収穫感謝の時には、ぜひ心に留めたいテキストである。主イエスが、「収穫」について語っている個所である。人間は「収穫」があるからこそ生存できる。そのために、土地を耕し、田畑を作り、種を播く。すると「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる」。ここに大切な言葉がある。「ひとりでに」、つまり「自ずから」「自分のほうから」。原語(ギリシャ語)で「アウトマテー」、英語の「オートマティック」という用語が用いられている。「自動的に」。これは「種事体が持つ生命の力によって、ひとりでに」という意味である。耕したり、種を播いたり、肥料をやったり、「収穫」のために人間は努力をする。しかし人間の努力など、自然の働きの中では、ごくごく小さなもので、「生命の力」こそが「収穫」をもたらすのである。だから収穫は「恵み」であり「感謝」なのである。収穫は「アウトマテー」によるものだから、人間は、「後は待て」なのである。

この国で、食べ物が無駄になっている3つの場所がある。一番、無駄になっているのが、「家庭」である。次が「ファミレス」始めとするレストラン、さらに次が「学校給食」である。食べ物の無駄にすることは、「生命」を軽んじ、踏みにじるものだ。その人が食べる様子を見れば、その人の人柄、性格、人格も見えて来る。まずいとか口に合わない、味付けが嫌いな食材があるから、というかもしれない。そこで、ある学校では、生徒が使うカフェテリアに、有名ホテルのシェフを招いたとのことである。それで残飯はなくなったかどうか。ある小学校では、学校給食で、殆ど残飯が出ないのだという。あったとしても、食べこぼしで捨てられるくらい少量なのだという。メニューも野菜料理が多いかというくらいの印象で、極く普通の給食献立である。ここでひとつ問題、「なぜ、この小学校では、殆ど残飯が出ないのだろう」。ひとまず立ち止まって考えて欲しい。

サン・テグジュペリ著『星の王子様』の中で、王子さまは自分の星にいた頃、1本のバラと一緒に生活していた。そのバラのために、一生懸命に世話を焼く。しかし、わがままで見栄っ張りなバラは、いろいろと王子さまを困らせる。キツネは王子に語る「きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ」。人間は大事ならば無駄にできない。大事なものとは何かを、いつも思う必要があるだろう。

今日の聖書個所で主イエスはこう語られている。24節「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」。自然は不思議なものである。人間が「恵みをいただく」という謙虚な思いで作物を育てれば、もちろんそこに永年、人が培ってきた栽培技術、あるいは知識、経験、科学的知見は必要なのだが、必要なものは与えてくれる。しかし、人間がただ収奪に走ろうとする時には、見事にそっぽを向くのである。旧約の時代にすでに、一方的な収奪を戒める教えが語られていることに驚かされる。「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ記23章22節)。ぶどうやオリーブという当時の生活になくてはならない作物も、同様に規定されている。それらは主要な食物の筆頭で、流通や換金しやすい作物であるから、たくさん収穫できれば、それだけ金銭的利益は大きなものとなる。そのように多くの資産を得た者は、それを運用してさらに富を獲得することができる。現代の経済論理だが、そうなると「持っている者はさらに与えられ、持っていない者は持っているものまでも取り上げられる」ような世界が出現する。

ところがそのような収奪するあり方をよしとするあり方、即ち、そのような勝手な「秤」を持つ者は、自分もまたそのように「秤り返される」のである。つまり「収穫」を単に金銭的価値にしか換算できないものは、それをいくらでも無駄にするだろうし、それは他人ばかりか自分の生命を軽視し、ないがしろにするであろう。生命を豊かに富ます術を考えない者は、「いま持っているもの、自分の生命をも取り上げられる」のである。