祈祷会・聖書の学び イザヤ書59章1~15節

バビロンの町は、市街地の縦横に、大河から引かれた運河が巡り、その周囲には、日干し煉瓦を積み重ねて造られた建物が建ち並ぶ、整然とした街並みであったと伝えられる。バビロニア帝国によって滅ぼされたユダ王国の人々は、捕囚として、この町に移住させられたという。この町の中央には、神殿からの大路が敷かれ、人々はそこを行き来し、日常の社会生活を営んでいたと思われる。では何ゆえ広大な大路が必要とされたのか。

その大路は「マルドゥクの大路」と称されており、バビロンの主神マルドゥクを祀る神殿から真っすぐ伸びる大道だったのである。神仏を刻んだ像は、通常、大伽藍の建造物、即ち神殿やら仏殿に安置し、信仰者がここに詣で、供物や犠牲をささげて祈願、礼拝し、特定の日、いわゆる縁日には、神仏を祀る祭儀式が執り行われる。ところが古代の偶像は、聖殿に安置し、祀ることが主な目的ではなかったのである。

偶像は祭りの日に、大勢の人々によって、神殿から外に引き出され、輿車に乗せられ、外を練り歩く。その行列の通路が、かの大路だったのである。縁日には、主神マルドゥクはじめ、配偶女神やら諸々の土着の神々の偶像が、いくつも通りを練り歩いた。人々はそれらの偶像の巨大さに驚嘆し、まるで偶像が現実に、生きて動いているかのように、感じられたという。巨大であること、立体的な造形であること、派手できらびやかであることによって、偶像は人々の心に、大きなインパクトを与えたことに間違いはない。偶像は、何よりパレードをするために造られたのである。

捕囚となったユダの人々も、祭りの度に、この大路を練り歩く偶像のパレードを観覧したことであろう。おそらく圧倒されたのではないか。軍事力、経済力、人口、国土のインフラ整備等、国力において、自分たちはその足元にも及ばない。勢い余って戦争はしたものの、当然の報いで祖国は滅亡し、自分たちは捕囚の憂き目を見ている。バビロンの神々の華々しさはどうか。それに引き換え、自分たちの神、ヤーウェは、目に見えない、隠された、ただひとりの神である。一体、どこにおられるのか。ただ古からの代々に伝えられた律法と、預言者の語る神の言葉だけが、自分たちと神とを繋ぐ縁である。余りに頼りないではないか。

豊穣と享楽に満ちた先進のバビロニア文化を前に、聖書の人々は、自分たちの非力さと無力さ、世界の片隅の田舎者であること、そして何よりも、もはやここでは、自分たちの神ヤーウェの力の及ぶところではないことを、痛感したのではないか。1節の「主の手が短くて」あるいは「主の耳が鈍くて」という言葉は、捕囚民が自嘲的に口にしていた合言葉だったのだろう。バビロンの偶像を見て見ろ、あんなにも大きな手をしている、あんなに大きな耳をしている。あれならこちらの願いをつぶさに聞いて、すぐにかなえて下さるに違いない、「それに引き換え自分たちは」、という嘆きの声が聞こえてきそうである。

神ヤーウェは、もはや自分たちのことなど、どうでもいいと思われている。自分たちは捨てられたのだ、忘れられたのだ。もしかしたら、自分たちの依り頼む神は、もはやバビロンの神々に殺されてしまったのかもしれない。国の敗北は、民の信じる神の敗北につながっているのである。因みに、外国との戦争において、異国は自分たちの信じる神の偶像を、戦場に繰り出して戦った。聖書の民は、偶像は存在しないから、神の契約の板(十戒)を神輿に乗せて、担いで戦場に赴いた。かつてダビデの時代、負け戦で、宿敵ペリシテ人に、契約の櫃を奪われたこともあった。古代において「偶像」は、軍事兵器のひとつでもあったのである。

今日の聖書個所では、「悪と罪が人と神の間を隔て、不法や偽りが平和を遠ざける」ことを、厳しい言葉を連ねて語られている。さらに彼らの振る舞いが「蝮(コブラ)の卵を孵し、蜘蛛の糸を織って着物を造ろうとしている」(5節)と言う。「不法・偽り」、そして「蝮の卵、蜘蛛の糸」とは、道理にかなっていない、とんちんかんな振る舞い表現しているであろう。聖書においては、人間の努力や真面目さも、理にかなっていなければ、的を外しているならば、それは「罪や悪」として働く、と見ている。卵を孵そうとする手の業も、糸を紡いで着物を織り上げる手の働きも、そこには熱意も努力も込められているが、肝心の「卵」が「蝮の卵」であり、「糸」が「蜘蛛の糸」では、いくら努力した所で、幸の実は結ばれないのである。生きるためには金が必要だからと、賭け事にどれほど一生懸命になっても、家計は立ち行かないだろうし、生活の為と言いながら、詐欺行為を働くなら、本末転倒である。しかし人間はこのような大義名分のために、どれほどとんちんかんな空回りをしていることだろうか。

だから、どれほど一生懸命にやっても、「光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中」となる。そもそも何が問題なのか。「不法や不正、偽り」とは何のことか。それは神にまっすぐ向き合わない、ということである。聖書において、罪とは「的外れ」を意味する。バビロンの華麗な偶像に目を眩まされ、見えない神、隠れておられる主に心を向けようとせず、「自分は捨てられた、忘れられた」とつぶやいている捕囚の民、これこそ神の民の、「不法、不正、罪」の姿である。神から離れることは、とどのつまり、自

分の力と能力だけに頼り、今、生かしてくださる神から目を背けることであるから。

明日はクリスマス・イヴを迎える。神のみ子が、人の世に降られ、一人の赤ん坊としてお生まれになったことを、喜び、称える日である。見えない神が、隠れておられる神が、人の姿になって、私のすぐ隣にやって来てくださった。これほど確かな光はないだろう。