クリスマス礼拝「その名をインマヌエル」イザヤ書7章10~14節

クリスマスおめでとう。

共同通信社がこのような新聞記事を伝えていた。「サンタはクリスマスに来られますか?」。新型コロナウイルスが流行する英国のジョンソン首相は25日、8歳の男の子から届いたという直筆の手紙をツイッターで紹介、自身の署名入りの返信を公開する形で「サンタは準備万端。素早く安全に行動すれば(感染する)リスクはない」と強調した。

8歳のモンティ君は手紙で「(サンタにあげる)クッキーの隣に除菌ジェルを置いておいたら来ることができるかな」と質問。ジョンソン氏は「北極に電話して聞いたらサンタもトナカイも早く出発したくてうずうずしていたよ」、「除菌ジェルを置くのはいいアイデアだね」と返信した、という。

クリスマスは多くの人々にとって、喜びの時であるが、今年のクリスマスには、やはり例年とは違う趣向が凝らされている。今、マスクは私たちの必需品だが、この時期、クリスマス柄のマスクが人気を呼んでいる。子供向けには、真ん中にトナカイの鼻をあしらったマスクも、またクリスマスタイプ「日本製 プレミアムマスク 最高の贅沢 GOLD」と銘打った仰々しいものも販売されている。

クリスマスが近づくと、毎年、新聞にはクリスマスに因む記事が伝えられる。今年はこんなクリスマス伝説が紹介されていた。メキシコにペピタという貧しい少女がいたそうだ。クリスマスイブの夜、イエスさまのお誕生日を祝うため、何か贈り物をと考えたが、あげられるものがない。贈り物を買うお金もない。泣いているペピタをいとこのペドロが慰めた。「どんなにささやかなものでも心がこもっていれば贈り物をもらった人はきっとうれしいはずさ」。ペドロの言葉に励まされ、少女は道端の草を摘み、ブーケをこしらえた。心をこめてつくった。恥ずかしさをこらえて教会に持っていくと信じられないことが起きた。ブーケの草が美しい「花」に変わった。見たこともない真っ赤な植物に。原産国のメキシコに伝わるポインセチアの物語。

高価ではない、見栄えも良くない、ありきたりの雑草が、美しい「花」に変わる。なぜこういう話がクリスマスに因んで語られるのか。それは、そもそもクリスマスの始まり、その源が、そうであったからなのだ。その始まり、最初のクリスマスを尋ねれば、ひとつの出来事に行きつく。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生む。その名をインマヌエルととなえられる」。

時は紀元前8世紀、聖書の国、南王国のユダの人々は、王を始め下々の者に至るまで、騒然としていた。既に聖書の国イスラエルは、2つの国に分裂してから2世紀を経ようとしている。メソポタミア北部アッシュルの地に古くから足を置いていたアッシリアが台頭し、大帝国としてこの地の全てを侵略、席巻しようと目論んでいる。それに対抗するため、シリア・イスラエル(北王国)が軍事同盟を組織し、ユダに強い圧力をかけてきている、という時代である。いつ何時、戦争の火ぶたが切られても、おかしくはない。人々の心の動揺し、上から下まで右往左往し、盛んに議論をしている。国益のためには、周辺諸国に対して、どのような態度を取るべきか。どの国と仲良くしたらよいのか。どんな駆け引きをすべきなのか。シリア・イスラエル同盟に加わるか、アッシリアに尻尾を振るのか、はたまたエジプトに頭を下げるか、どれを取っても、リスクが大きい、何せ、ユダの置かれている場所は、騒動の中心に位置している。どれを選択しても、無事に済むはずがない。

人生は「選択」とか「決断」によって決まる、とはいうものの、「ベストのものを選ぶ」、なんてことは夢物語である。では次善の策で、「ベターなものを選ぶ」、これも現実的ではない。一番あり得る選択は、「どれも悪い」、しかし「どれか選ばねばならない」という決断や選択である。そういう場合、人間はいきおい、アクセルとブレーキを同時に踏み込むこととなる。現代をも髣髴とさせるような国際情勢に、聖書の国、南王国は置かれているのである。歴史は同じことの繰り返しかとも思わされる。

その歴史の渦中に、イザヤは預言者として召し出され、アハズ王の下に遣わされるのである。3節後半「アハズ王に会い、彼に言いなさい『落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない』」。国際情勢が緊迫し、明日どのようになるかも分からないのに、「落ち着き、静かに、恐れるな」つまり「あたふたするな」と神は語られる。さらに主は王に言われる。11節「主なるあなたの神に、しるしを求めよ、深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」。この言葉は非常に詩的な表現なので、分かりにくいが、「あの国だこの国だ、などと他所の国を横目で見て、よそ見をせずに、ただ神に祈り求めよ、地の底から、はるか天の極みまでも支配されているあの神に」。このイザヤの語る言葉に、皆さんはどう思われるか。

アハズ王は、手練れの王だけあってこう答えている。「わたしは求めない、主を試すようなことはしない」。このアハズの言葉は、近ごろよく耳にする「お答えを控えさせていただく」というような意味合いである。政治と信仰は違う、神と国は全く別物だ、政治に信仰を持ちこむな、という極めて正論を、沈黙の内に、この王は口にするのである。この王は木で鼻をくくったように、全くイザヤに対して、つまり神の言葉に、向き合おうとしていない。つまり神に心を閉ざしているのである。

そこで語られるのが、クリスマスの度に読まれる、有名なみ言葉、インマヌエル預言である。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この激動の時代に、ひとりの赤ん坊がここに誕生する。生まれ出た小さな生命を、ほとんどの人は他人事として、一顧だにしないだろう。人の世に新たな生命が生まれる、それはこの世の常だ。子どもの誕生と成長の有様は、皆が当たり前のことだと受け止めている。しかしどうか、その小さな生命、誕生と成長すらも「インマヌエル」、「神が共にいます」ことの表れではないのか。この小さな命に働かれる神は、私たちひとり一人に働かれ、さらに国と国、世界に働かれているのではないか。

このアドヴェントの間に、こんな新聞記事に出会った。「その闘いは一枚のビラに記された言葉から始まった。『たとえ我、死の影の谷をあゆむとも、禍害(わざわい)を恐れじ』。1952年のことだ。支援者が拘置所に届けたのか。その聖書の一節が絶望の淵にあった免田栄さんの一筋の光明となった。48年熊本県人吉市で起きた一家4人殺傷事件で、強盗殺人容疑で逮捕された免田さん。公判途中から否認に転じたものの、最高裁で死刑が確定。6度の請求の末再審開始決定を得て、確定死刑囚としては初めての再審無罪を勝ち取った。想像できるだろうか。無実とわかってもらえるという思いが、ことごとく裏切られていく絶望を」(12月6日付「卓上四季」)。

その絶望の中に、み言葉が飛び込んで来た。「死の陰の谷を歩むとも、禍を恐れじ」。その後には「神、ともにいませばなり、インマヌエル」と続く。そのたったひとつの言葉が、神の言葉となって、その人の光となった。人間は何もしないでも、できないでも、神は働いておられる。当たり前のこと、些細なこと、つまらないこと、日常のことの中に、神はみ手を伸ばし、出来事を起こされる。かのベツレヘムの片隅の馬小屋の中、飼い葉桶に寝かされた赤ん坊が、神の救いのしるしとなる。ここに最初にやって来た羊飼いも、東方の博士たちも、ただ眠っている赤ん坊を見ただけである。しかし彼らはそこから人生の歩みを新しくされたのである。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」。信のない所に、確かさはない。雑草のような私たちに、それでも神の言葉が吹き込まれる時、誰も、どの人も、美しいポインセチアに変わるのである。