祈祷会・聖書の学び エレミヤ書6章16~19節

こういう新聞コラムを目にした。「『容認できない慣行や基準が次第に受け入れられるようになる過程』。米スペースシャトル『チャレンジャー』爆発事故を分析した米社会学者、ダイアン・ボーンさんが提唱した『逸脱の正常化』である。ロケットの接合部を密閉するゴム製リングは低温で硬化して隙間(すきま)ができる危険性があった。設計した企業は欠陥を米航空宇宙局(NASA)に伝えていたが、打ち上げ成功が続くうちに『許容範囲』と解釈されるようになったという。異常寒波で欠陥が顕在化した。中止を求めた技術者もいたが聞き入れられず、高温の燃焼ガスが漏れて打ち上げの73秒後に爆発した」(1月28日付「余禄」)。

かつてこの国のコメディアンが「だいじょうぶだあ~」と太鼓をたたいて謡うコントが大流行りした。面白おかしくそれを聞いて、余計な緊張を解きほぐされるような感慨を覚えたものである。すべてのことを余りに生真面目に考えていると、心配でがんじがらめになって立ち往生してしまうことになる。「大丈夫!」、そういう呼び声はこの世の「福音」にも感じられる。心配や不安を抱いているからこそ、耳に響く安心の声に心が引かれる、ということがあるだろう。危機や不安の時代には、トップダウンの強い指導者が求められ、ひいてはファシズムが生み出される温床となる素地も、その辺りにあることが歴史から検証できるのではないか。

今日の聖書個所16節にこうある、「さまざまな道に立って、眺めよ、古からの道に問いかけて見よ、どれが幸いに至る道か」。若き預言者は祖国の待ち受ける遠くない未来の運命を憂いつつ、こう預言する。「さまざまな道」という訳語を、協会共同訳は「十字路」と訳しているが、原意は道が何本も交差している「交差点」のような意味合いである。車を運転していると交差点に、5本も6本も道が枝分かれになっていて、どちらに進んだらよいのか非常に戸惑うことがある。そのような多重の交差点は事故の多発する現場でもあるが、そういう状況に身を置いてみると、心配や不安は否が応にも強くなる。最近は車に高性能の「ナビゲーション・システム」が装備されているので、運転するのに大いに助けられる。さらに近い将来、AIを駆使しての自動運転技術も確立されると期待される。そうなれば「不安や心配」ともおさらばということにもなろうが、すると今度はITやらAIなしには何もできなくなって、人間自身の判断や検証が不可能になってしまうという弊害も生じるだろう。全部あなたまかせの「だいじょうぶだあ~」という生活は本当に安心・安全の世の中なのだろうか。

さらにエレミヤはこう問いかける、17節「わたしは『あなたたちのために見張りを立て/耳を澄まして角笛の響きを待て』と言った、しかし、彼らは言った。『耳を澄まして待つことはしない』と」。この預言の言葉は、初期エレミヤ預言の基調であった「北からの脅威」を警告するみ言葉に対応していると考えられる。即ち、預言者は、惰眠を貪り安穏を享受する同胞、ユダの民に対して、周辺諸国の情勢に敏感であるように促しているのである。だからと言って隣国に迫る外敵の脅威に、自衛のための軍備増強を主張したという短絡的な警告ではなくて、先般の「幸いにいたる道」に目を向けるように、という促しであったろう。「幸い」とはことさら国益を死守することには留まらない。これについては後述する。

しかし、エレミヤの告げる「北からの脅威」とされる出来事がなかなか生起せず、彼の預言は空ろな虚言とみなされ、年齢的にも若輩であったことから、彼は偽預言者のひとりの如くに人々からは評価されることとなった。預言の成就それ自体よりも、ただ彼は、惰眠を貪る民の心にこそ、一番の危機があることを見抜いていたのである。

こうした彼の発言の背後にあるのは、今で言うところの「正常性バイアス」と呼ばれる心の状態である。人間が日常生活で受ける刺激や不安に過剰反応して精神が疲弊しないよう、心の平穏を保つための防御機能として備わっている。しかし、この機能が非常時に強く働きすぎると、適切な行動が遅れ、命に関わるリスクを招くことがある。7章4節に「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と語られるように、人々が合言葉のように「主の神殿」、即ち「我々にはどこの国にもまさる神殿がある、だから何が起こってもだいじょうぶだ」という迷妄に陥っていることを警告しているのである。肝心なのは建築物ではなく、生ける神ヤーウェに対する信頼、誠実であり、それを欠いた安心・安全は、果たしてまことの「幸い」に通じるものであるのか。

イスラエルの人々が、幼い時から繰り返し聞いてきたのは、古老、長老たちが語る自分たちの先祖の話、自分の祖父母、親たちの、かつての歩み、思い出話、さらに親もまたその親から聞かされた、民の古の体験、即ち、神の救いの物語であった。そこで、耳にタコができるくらいに、何度も何度も繰り返し聞かされたのは、「出エジプト」の物語であった。飢饉を避けるために、食料が豊富なエジプトに降ったヤコブの子ら、そしてそのまた子どもたちが、いつしかエジプトの奴隷の身分に落とされ、つらい労働で苦しみ呻く生活が長く続いた。時満ちて、その苦しみ呻く人々の叫び声を、イスラエルの神は聞かれて、神の人モーセが遣わされ、人々を奴隷の苦しみから解放し、奴隷の地エジプトから連れ出された。逃げ出した奴隷たちに対して、皆殺しにすべくエジプト王ファラオが追いかけて来た。紅海のほとりに追い詰められて、人々は絶体絶命の大ピンチに陥る。人々の大きな後悔をよそに、その危機を神は救われる。モーセが腕を上げると、海の水は退き、イスラエルの人々は、人が作ったのではない神の造られた海の中の道を通って、ファラオの軍隊から逃れたのである。人々はこの昔々の神の救いの物語に、繰り返し耳を傾けて歩んできたのである。即ち、強大な武器を身に帯び、圧倒的な力で迫って来るエジプトのファラオの軍勢を、神は武器を用いることなく、退けられたのである。この神のみわざに信頼し、平和の内に、安心して生きることこそが、「幸に至る道」だと繰り返し心に刻んだはずである。

ところが時が経ち、時代が変わり、イスラエルの国が豊かになり、力を持つようになると、人々は、段々と神の力に信頼することができなくなってしまった。神の姿は見えないから本当に共にいて下さるのか疑わしい。武器も持たない、それでは他国から攻められたらどうするのか。ひとたまりもないではないか。そこで戦車を整え、武器を貯え、兵隊を増強して、人の力で、武力で、平和と安全とをつくり、生命を守ろうとしたのである。それが「そこを歩むことはしない」という返答なのである。それで「魂に安らぎを得よ」とまことの安心と安全がもたらされたかと言えば、まったく真逆のことが起こり、大きな戦争が繰り返された挙句、紀元前587年、聖書の国、ユダ王国はあっけなく滅亡したのである。人間は悲劇を繰り返す、自分の力のみに執着する時に、それ以外の見えない、知られざる力が見えなくなってしまうのである。「幸い」とは「さきはう」、草木が生い茂るように、不思議な恵みの内にもたらされる祝福のことであることを、今も思い起こしたい。