祈祷会・聖書の学び コリントの信徒への手紙一12章1~11節

「とんかつの肉より高いキャベツかな」、昨今の青物野菜の高騰を評した川柳である。圧倒的な存在感を漂わせるメインディッシュに比して、その野菜の立場は余りに弱いように感じられる。しかし、メインのみだったらやはり物足りなさや行き過ぎを覚えるのである。これまで安価ゆえに「おかわり自由」だった状況が、現在一変しているという。高原キャベツの生産地で値が下がりすぎて、出荷しても採算が取れないというので、丸々と実った大玉を、コンバインが踏みつぶす無残な光景もしばしば伝えられたものである。しかし今や、その付け合わせの端役が、メインをもしのぐ存在ともなっている。これは春先まで続くとの見方もある。

人間は、生存のために集団を作って生活をする、という生命戦略を採用した。これが功を奏したのだろうが、現在までこの星で生き残り、数的には80億もの個体を数えるまでに至っている。但し、「人類」として頭角を現してからは数百万年の歩みであり、地球上の生命体としては、未だに「新参者」の域を出てはいない。これからどうなって行くのかは、確かな見通しがある訳ではない。それでも社会や国家という一定の集団的枠組みを維持して、これからも生き延びようとする方針は、暗黙裡に合意されているものと思われる。

「集団」といっても、ただの「烏合の衆」のように数をもってそこにいさえすればいい、というものでもない。食糧を始めとする生活の資の獲得や生命維持のための安全が保障されるための取り組みが必要となって来る。するとやはり集団を構成する個々人が、何らかの働きをもって、群れのために機能することが求められるだろう。いわゆる「役割」を演じ、それを分担しながら集団の維持を図るのである。そこから政治経済や文化といった運営手段、手法が工夫され開発されて来る。

ところで教会は、神の民の群れ、もっと詳しく言えば神が呼び集められた人々の集合体である。聖書は教会を「エクレシア」と呼ぶが、それは日本語の訳語のように「教える」というニュアンスは希薄であり、その語源は、古代ギリシャのポリスで市民が参加する集会(民会)である。古代ギリシャの民主政で、それは国政の最高議決機関として機能し、行政や立法、外交など国政のあらゆる面に決定権を持っていた。市民が衆議所に召集されてポリス運営の実務を担う姿勢を、キリスト教会も受け継ごうとしたのである。

今日の聖書個所で「賜物」という言葉が語られるが、「カリスマ」の語源はギリシャ語の「charis(恩恵)」で、神から与えられる「恵みの賜物」という意味で用いられる。「カリスマ」は、イエス・キリストを信じて聖霊を受けた人々に与えられ、キリストの証人になるために、また教会を建て上げるために寄与すると考えられている。だからこの用語は、社会一般に使われている以下のような意味合い、即ち「特別の人にみられる超自然的・超人間的な資質や能力」、また「人並外れた高い能力や、強烈に人を惹きつける魅力」、あるいは「多くの人を自分のもとに集め、従わせ、支持される求心力」という意味合いとは、随分雰囲気を異にする。

実際、この個所では教会の「カリスマ」がどのようなものか、具体的に8節以下にその有様が記されている。「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」。

確かにこれらの能力は、一見すると超自然的能力のようにも受け取れるのだが、世の人が想起するような大衆の目を眩ませるニュアンスは、感じられない。「病の癒し」にしても、友人知人、家族内に病気の人が居る時に、その人のところに行って手を当てて、快癒を祈るという雰囲気である。「奇跡」にしても、天変地異のような大それたものではなく、身近に起こる幸いな出来事の生起、という雰囲気である。つまりいわば「等身大のカリスマ」といえるものによって、教会が運営されている、と理解されるのである。

そしてさらに重要なのは、4節「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」。つまり教会のひとり一人の働きは、どんなことでも、すべて神からの恵みによって与えられる、ということなのである。どうも、そうした神の賜物と呼べるものを、コリントの教会では、格付けし、比較し合い、誇り合うようなところがあったようである。

確かに人間ひとり一人には、得意不得意、得手不得手があるだろう。世の中では確かにそれで価値判断や評価がなされたり勝敗が決められたりする。しかしそれは神の与える恵みのほんの一部分でしかない。人間は、その一部だけをもって、すべてと勘違いするのである。誰にも負けない人並み以上の能力や資質を伸ばすことが、ひとり一人の人生の課題であるとしたら、ほとんどすべての人は、孤立し敗残者となるであろう。神は「人がひとりでいるのは良くない」と言われたが、それは孤独が悪いということではなく、ひとりでは生きられない、つまり集団で生きる人間の宿命を示す章句として、理解した方が良いのではないか。

こういう文章がある「同じであるということと、一つであるということとは、全く別のことです。同じであるものの間には、対立も緊張も分裂もなく、従って発展も成長もなく、生命はそこにおいて存在しえません。同じとは死の相です」(藤木正三『神の風景』)

「世の中では、『適材適所』と言われるが、教会は『不適材不適所』の場所である」、かつて若い日にこう助言してくれた教会の役員がいたことを想い起す。人間をこまのように、まるでものか材料のように見なすのが「適材適所」である。神は人間、ひとり一人の見えない底、深みを見られる方である。その方が、「すべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」という。人間の中から出て来たものは、どれほど優れて強いものであっても、所詮、人間のわざである。その人間がひっくり返されるのが、教会である。そこは見えない神の霊が、風のように吹き渡っているところである。この風に吹かれているのが、実にキリスト者である。