吉野弘氏の詩に「虹の足」という作品がある。私にとって「榛名山」という故郷になじみの山も登場するので、何とはなしに身近な思いがする。「雨があがって/雲間から/乾麺みたいに真直な/陽射しがたくさん地上に刺さり/行手に榛名山が見えたころ/山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を」。全体としては、ある種の心象風景を描く作品であるが、旅先の、たまさかバスの中から見た虹が、非常に美しく、見事だったのだろう。いささか幻想的な絵画を見るように、ことばが紡がれている。「その虹の足の底に/小さな村といくつかの家が/すっぽり抱かれて染められていたのだ/それなのに/家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない(中略)多分、あれはバスの中の僕らには見えて/村の人々には見えないのだ。/そんなこともあるのだろう/他人には見えて/自分には見えない幸福の中で/格別驚きもせず/幸福に生きていることが」。
「他人には見えて、自分には見えない幸福」、ほんの数カ月前まで、いろんな場所に出かけることも、遠く離れた家族に会うことも、仲間と集まって飲んで騒ぐことも、ごく当たり前の何でもない日常だった。虹のたもとの村人たちのように、それがどれほど幸福なことだったか、気づきもしなかった。不安を胸に抱えながらも、「緊急事態宣言」はどこか遠い外国のことだと思いたい気持ちもあった。生きているところで人は「見えているもの」がずいぶん違うものである。
こういう文章を目にした。「東日本大震災の直後、私は数日間泣き続けた。あの日、家に帰れなかった友人たちが私の家に泊っていた。スーパーに買い物に行き、6人分の朝食のため牛乳パックを数本買い物かごにいれていると、近くの男性が「買い占めかよ」と、ぼそ、とつぶやいた。近所のガソリンスタンドはすべて閉まっていて車での移動は一切できず、とはいえそもそも行くあてがあるわけでもなく、東京に閉じ込められているような気分になった(北原みのり)」。
震災の時、そして今回の「コロナ禍」も、見ている方向が違うことで、お互いがそれぞれ痛みの中にあるにもかかわらず、自分の見えているところだけで、誰かを裁き、断罪する。災害やら災厄は、もちろん起ってほしくはない筆頭だが、それらは、普段隠れているもの、隠されている事柄を、あらわに表に引きずり出す働きをする。その隠されているものを、聖書は「罪」と呼ぶのであるが。ただ明るみに出された「罪」を、人間が裁く時に、人と人との間に、どうしようもない「断絶」が生じるのである。
今日の個所はヨハネ福音書15章18~25節である。ヨハネ福音書の特徴として、他の福音書に比べて、用いられている語彙が少ないことが上げられる。学生時代に使った英語の辞典には、各英単語の脇に「星印」が付けられており、その数で、それぞれ「中学、高校、大学で覚えておくべき単語」と種類分けされていた。学年が上がるに従い、単語数も増えたのである。つまり語彙が少ない、ということは、書き手がそれ程ギリシャ語に精通していないことを証しているのである。
この個所には、「憎む」”μισέω(ミセオー)”という動詞が、何と7回も使われている。(15:18, 18/15:19/15:23,23/15:24/15:25)。ちなみに「憎む」”μισέω”という動詞は、新約全体では40回使われている。その内の「7つ」がこの章に集中して置かれている。語彙力の少ないヨハネといえども、繰り返してひとつの単語を用いるということは、稚拙な文章になることくらい承知しているが、この語に強い思い入れがあるからこそ、敢えて用いているということである。だから、この用語を外してここの個所を理解することはできない。
ギリシャ語の辞典には、「憎む 嫌悪する」という意味が記されている。そして大方の辞書は、この語の反対語は「愛する」という言葉だと説明している。今日の聖書個所にも、19節に「身内として愛したはずである」とあり、「憎む」の反対語が、「愛する」、しかも、「すぐそばにいる、自分自身や親しい間柄、同士のように」という風に「理解されている。普通「憎む、憎悪」という言葉について考えると、「何らかの理由があって、誰かを、相手を、忌み嫌う、絶対に許せないと思う」という具合いに、「感情」しかも非常に強い「激情」が表現しされているように思えるものである。
ところが聖書で「愛」は、双方の関係性を表す言葉で、「ある者を他の者より選ぶ、好む」という風に、強いきずなを抱いている、緊密な応答関係にあるという状態を表している。だからその反対語は、「嫌う」とか「嫌がる」という反発の感情ではなくて、「選ばない、斥ける、無視する」という意味を表しているのである。つまり、いろいろな場面でよく語られているように、「愛の反対語は、憎むではありません、無関心です」と言うことになる。「嫌いきらいも好きのうち」と俗謡で歌われるように、感情レベルの「憎しみ」は、そこでの我と彼との関係は、確かに良いものではなかろうが、関係そのものは途絶えてはいないのである。つまり修復の道は、何とか残されている。しかし「無関心」ならばどうか。
「世はあなたがたを憎む」、ヨハネの教会への迫害が意識されているが、その原因は、主イエスを憎んだことによるのだという。そして23節「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる」とその一番の根本にある事柄が語られる。一般に「憎む」という心の動きは、暴力の引き金になると考えられている。しかし人が暴力をふるえるのも、その背後に「無関心」が潜んでいるからである。人を人とも思わず、相手にも家族があり隣人があり、血の通った生活があることをまったく考えようとせず、人間と見なさないからこそ、情け容赦なく、暴力をふるうことができるのである。だから暴力の背後には、他者の痛みや嘆きや悲しみへの、徹底的な「無関心」がある。そして人間に対する無関心は、キリストに対する無関心であり、それは「神」への無関心が根底にあるのである。
だから人が「神」に無関心になる時に、他の人を容赦なく裁くようになるのである。それは自分が「神」になるからである。ここに一番の人間の罪が凝縮していると言えるだろう。主イエスは、いつも神に目を上げ、そのみこころを求め、祈り歩まれた。だから十字、架の道をたどり、十字架の上で私たちのために、神に赦しを願ったのである。「この人たちをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているか分からないのです」。コロナ禍の数カ月、私たちは主イエスのみ言葉の、本当に近くに生かされている。
あの(震災の)時、私だけでなく多くの人が自分の中の「何か」が動かされた経験をしたのではないだろうか。私の周りには、仕事観が変わって転職した人もいれば、人生観が変わって移住した人も多い。私たちは、こうした有事を変化の機会として、自分の内面の声を聞き、身体の感覚を受け取りながら、人生の選択をしていっているのだろうと思う。それは日常の中では、当たり前過ぎて見過ごしてしまいがちなことなのだろう。今回の新型コロナウイルスの感染拡大が、私たちの未来にとって良い変化の機会となるように願っているし、そうすべく行動していきたい(渡邉さやか)。
日常の生活が崩される時に、私たちは初めて、いつもの生活のかけがえのなさ、あたりまえの人間関係の絆の尊さに気づく。そこで初めて、私たちの生命の根源に思いをいたすのである。すべてを当たり前と思い、あって当然だと考える思考は、感謝を欠いて、愛を締め出すものである。それは、神のことを思わないで、人間のことばかりを考えるからである。すると私たちは、自分自身を憎む者となってしまう。そこには「喜び」がない。「喜び」がなくては、生きる甲斐もないではないか。