「あなたは笑った」創世記18章1~15節

皆さんならどう答えるだろうか。子ども達はこんな答えを語ってくれた。1人目は小学校4年生「心があるからだよ」。2人目は中学校3年生「人がいるからじゃないかな、一人じゃないから」。3人目は小学校1年生、少し考えてから答えてくれた「楽しいからでしょ」。

これらの答えは、「どうして人は笑うのか」に対する答えである。見事というしかない。

「人間は笑う生き物である」という定義がある。結構、古典的な人間理解であるが、最近は、「笑う」という所作について、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の自然人類学者が、「霊長類から鳥類まで65種の動物が笑う」という研究結果を新たに発表したそうである。論文に掲載されたリストを見ると、65種の大半はチンパンジー・ボノボのような大型類人猿や、ニホンザルなどのオナガザル科(旧世界ザル)の霊長類だが、犬やネコ、牛などの家畜や、デグーのような齧歯類やアシカ、ミヤマオウムも含まれている。「笑い」はもはやこの「地球」と同じく、人間の占有物ではないらしい。

しかし、人間ほど「笑い」というものに複雑な心、情緒や心情を含めているものはないだろうと思う。時には学生時代を思い起して、漢字の勉強もいいのではないか。みな「笑い」にまつわる熟語である。読みと意味、さておわかりか。「笑壺」、「えつぼ:笑い興じること」。「莞爾」、「かんじ:にっこりと笑うさま」。「含笑」、「がんしょう:口をとじ、声を出さないで笑うこと」。「毀笑、譏笑」、「きしょう:そしり笑う、嘲り笑うこと」。「軽笑」、「けいしょう:軽んじてせせら笑うこと」。「言笑」、「げんしょう:うちとけて笑いながら話すこと」。「笑殺」、「しょうさつ:大いに笑わせること、笑って無視すること」。皆さんはこのような笑いをしたことはあるか。

さて今日の聖書個所は、イサク誕生の前史、プロローグを語る伝承である。昼日中、アブラハムが天幕で寛いでいると、目の前に三人の見知らぬ旅人が立っているのを見る。アブラハムは彼らに目を留めて、招き入れて木陰で彼らをもてなす。現在でも砂漠の遊牧民、ベドウィンは、客人を懇ろにもてなすことが知られているが、聖書の律法にも「旅人をもてなす」ことを、イスラエルの行うべき徳として命じている。これは新約にも反映し、遠方からはるばる旅をして訪れる「さすらいの伝道者」を、大切に受け入れて、もてなすことを勧めている。その理由として、律法は、「あなたがたもかつては寄留者(ゲール:よそ者)であった」ことを上げているが、遠方からの旅人は、新奇な情報の提供者でもあった。彼らのもたらす未知の場所のニュースは、自分たちの安心、安全を判断する基となり、なおかつ娯楽でもあった。情報の大切さを、古代人も、きちんと認識していたのである。

アブラハムのもてなしの様子を見ると、上等の子牛一頭をつぶして料理し、さらに小麦三セア、つまり22ℓもの小麦粉を、発酵させずにすぐに焼くことのできるパン菓子(スコーン、パンケーキ)にして振舞ったと言う。その量たるや破格なもてなし、と言えなくもないが、そもそももてなしとはそういうものである。「ぶぶづけ」ではいかにも物足りない。ヘブライ人への手紙にはこう記されている、「旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気づかすに天使たちをもてなしました」(13章2節)。確かにこの解釈通りだろう。アブラハムが神の御使いと見抜いて、ここぞとばかりの大盤振る舞いをしたわけではないだろう。但し、日も高い昼日中に、炎天下旅をするというのは、尋常ではない、よほどの訳があるのだろうと、しかも自分の天幕の真ん前に立っている、そう尋常ならざるものを感じて、アブラハムはつい彼らに声を掛けたというところだろう。そしてそれと知らずに声を掛けて、そこから生じた出会いによって、アブラハムとサラは、彼らの人生を左右する決定的な事柄を告げられる。つくづく人生とはそういうものだろうと思う。そういう予想外の出会いで、どれほど人生が豊かにされることか。

この個所のキーワードは、「笑う(イツハク)」である。前章15節、アブラハム契約の結びに、神は子どもの誕生を彼に告げている。その場面で、アブラハムは笑うのである。17節「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って密かに言った」。アブラハムも人の子である。ひれ伏して、表情で悟られないように、顔を伏せて、そして嘲り笑うのである。人間の本性を何と的確に切り取っていることか。ところが、神はこの彼の態度に、こう告げる。「その子をイサク(彼は笑う)」と名付けなさい。見えないように、見られないように、と人間は本当の所を包み隠して、誤魔化そうとするが、神はそれを逆手に取って、み言葉を実現されるのである。

そして今日の個所で、み使いが同じことを、再び告げる。「『わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。』サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた」。そして彼女も夫と同じく反応するのである。「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。

ところでこのアブラハムとサラの「笑い、イツハク」はどのような質のものか。もちろん喜びや歓喜、望みにあふれた明るい笑いではない。いわば「歪んだ笑い」と言えるだろう。この国には、さまざまな笑いを表す機微にあふれた言葉がいくつも存在する。それだけ人間の笑いは、一口に「笑い」といっても微妙なのである。ところが旧約のヘブライ語には、「笑い」を表す用語は多くはない。ほとんどの場合「笑い、イツハク」なのである。

サラの心を見抜いて、み使いはアブラハムに言う「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

「笑い」は本来、神の働きであって、聖書にあっては、神はひとえに「笑う」方なのであり、さらに人間に笑いをもたらす方なのである。成程、人は単純明快に、手放しの笑い、掛け値なしの笑い、破顔一笑しながら、生きて行くわけではない。しばしば「歪んだ笑い」を浮かべつつ、人生を歩んで行くものだろう。しかしそこにも神は手を伸ばされる。サラに対して語られた主の言葉、「いや、確かにあなたは笑った」は、決して、不信仰のサラを断罪する裁きの言葉ではない。「あなたは笑い続けるだろう、しっかりと笑い続けなさい」という不思議な意味合いの言葉なのである、つまり「わたしは笑いません」と自分の心のまことを見抜かれ、恐れて頑なになって、かちこちに強張った表情のサラに、「大丈夫、あなたは笑い続けるだろう、しっかりと笑い続けなさい」という暖かな励ましに近い言葉なのである。

「笑う」という言葉の語源について、民俗学者の柳田国男は、「笑う」は「割る」から派生した言葉だと主張する。「割る」即ち根っこに、固く結んだものが割れる、ほころぶ意味が潜むというのである。だから顔をほころばせることを笑うというのであると。因みに花が咲くことも、笑うと言う。つぼみが割れて開くことになるからであろう。分別意識にかちこちに固まっている心が、割れて開かれる時に、人は笑う。善だ悪だ、正義だ虚偽だ、是だ非だ、と分別顔して凝り固まっているのが人間の常の心である。それが割れて開かれて、神の示される広い世界にふれると、笑いが出るということかもしれない。

神学生時代に習ったある旧約の先生は、試験で必ずある問題を出題した。「サラはなぜ笑ったのか」。学生は色々理屈を捏ねて、理由を考えて、あれこれあれこれ答案を書くのだが、試験の後、こう言われた。「君たちは難しく考えすぎているよ、サラはね、おかしいから笑ったんだよ」とサラっと言われて、拍子抜けした想い出がある。

クリスマスに主イエスがお生まれになった。考えてみれば、これほどおかしな出来事はない。救い主が宮殿ではなく家畜小屋に誕生し、それも寝かせるベッドがなかったから飼い葉桶に寝かされ、大工として手に豆して働き、ついには、十字架に釘付けられ、血を流されて亡くなったという。これが「まことの救い主」だという。そもそも神の子が、人となってこの世に生まれたということ自体が、何と愚かしく信じられないことか、私たちもまた、サラの笑いのように、歪んだ笑いを笑いつつ、生きているのだろう。しかし歪んだ笑いでは、喜びは生まれて来ない。しかし神は、その歪んだ笑いを、まことの笑い、「おかしいから笑う」、に変えて下さった。サラの人生の時にも、私たちの人生でも。この地に暮らした詩人がこう詠んだ「赤んぼが わらふ/あかんぼが わらふ/わたしだつて わらふ/あかんぼが わらふ」。クリスマスに、神はこんな笑いを届けてくれるのである。それを今年も心深く受け留めたい。