今年も年の瀬を迎えた。この一年を顧みれば、新年早々の入院、手術から始まって、目の前に立ち現れて来て、取り組まざるを得ないことと向かい合って、仕方なくそれらと格闘し、何とか折り合いをつけているものの解決には至らず、今もそれが続いているという有様である。我ながら無様な様子だと思われるのだが、それでもこうして生かされているのは、恵みというほかない。
新年早々の入院の際には、医師、看護師始め、多くの医療関係者のお世話を受け、支えられたが、手術には思いのほか時間がかかり、術中に麻酔が解けて、我が身のことであるが医師たちの格闘の様子をつぶさに目の当たりにすることとなった。何人もの人が私の身体に取りすがるようにして、病巣を取り除くために必死に奮闘されている。何とか患部の処置が完了した時には、執刀された主治医の歓声が上がるのも耳にした。ひとりの生命のために、何人もの人々の手が支えてくれているという現実は、医療の現場だけのものではないだろう。すべて生命が生かされている背後には、このようなたくさんの「手」が介在しているのである。
今日聖書の個所は、主イエスのお七夜から、その後、40日目のお宮参りに至る、この国でもおなじみの生誕儀礼にまつわる逸話である。ユダヤの風習とこの国の作法が、よく似ていることに驚かされる。このお宮参りの時も、私たちがしばしば見かける懐かしい光景が展開している。お年寄りが、生まれたばかりの赤ん坊をその腕に抱き、いのちの幸いをその身に感じ、喜びを表すという場面、こういう光景こそ、この世界に目に見える至福の時と言えるだろう。長年、ひとり神殿で時を過ごして来た老預言者シメオン、そしてこれもまた若い時に夫を亡くし、ひとりのやもめとしてずっと神殿に寄寓していた女預言者アンナ、この二人との出会いは、まさに幼児イエスの宮参り最も似つかわしいシーンであり、この二人こそ、このシーンでのまさにはまり役であると言えるだろう。
羊飼いたちの来訪を語るルカのクリスマス物語では、その後の宮参りの様子が伝えられているが、そこに登場する人物は、聖家族を除けば、みなかなり高齢の老人たちである。クリスマスというと現代のこの国の祝い方からすれば、若い人たちが親しい友人たちとロマンティックな夜を楽しむ、という「若者の文化」という側面と、小さな子どもたちが、家庭でフライドチキンとイチゴの乗ったケーキをあしらった食卓を囲み、団らんを楽しみ、サンタクロースの持って来る贈り物に、わくわくした思いをはせるというのが慣わしである。ところがルカは「クリスマスは年寄のものだ」、というように、高齢者を前面に登場させるのである。
神殿で、幼い主イエスをその手に抱いたときに、思わず漏らした老シメオンのつぶやきは、その言葉を聞く者に深い感慨を呼び起こす。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます/わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」この老人の言葉を、もっと一般的に端折って言い表すなら、「もう思い残すことはない」という満ち足りた心情の吐露である。そして人間のいのちの最後に訪れてくる問いは、やはり「神の救いを見る」ことに尽きるだろう。それは、これまで幾度となく聞かされていた言葉、「そんなものか、おそらくそうなのだろう、しかしほんとうにそんなことがあろうか」と半信半疑、あるいはよく分からないと自分の心に棚上げにしていたあの言葉、実に神の言葉、主の約束のみ言葉が、確かにそうであると、魂に突き刺さって来る時なのである。これなしに、私たちは、「安らかに去って行く」ことはできない。
私たちは、自分の人生の終わりに立って、このように述懐するという。「他人の目を気にしすぎた」「明日のことを心配し過ぎず、いろいろ挑戦すればよかった」「人との時間を大切にすればよかった」。しかしこのような回顧ができることは、それなりに人生が平安の一にあって、守られて来たからであるのは間違いではない。しかしだからと言って、それで人生に満足できる、というものではないだろう。老シメオンの言葉は、私たち自身の言葉でもある。
シメオンは預言者として、今、自分の腕の中に無心に眠る赤ん坊のまことを知らされて、彼のいわば最後の信仰の告白をする。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」母マリアに伝えた言葉だが、まさにキリストとは誰か、何であるかを、見事に語る告白であろう。「反対を受けるしるし」即ち「十字架の主」として、出会う人すべてを、「倒したり、立ち上がらせたりする」、つまりその人のすべてを、「大きく揺さぶり、あるいはなぎ倒し、あるいは立ち上がらせ、再び歩み出す力を与える方、そのような救い主」として、私たちに出会われるだろう、というのである。この方にまっすぐに向かい合うならば、私たちの魂は、母マリアならずとも剣で刺し貫かれるようになる。
そして、この幼児を腕に抱く時には、私たちの「心の思いは」、私のすべては、御子の前に、あらわに、むき出しにされ、全く白日のもとにさらされる。但し、思い違いをしてはならない。私のすべて「心の思い」は、誰か他の人の目にさらされるのではない。ただこの御子との間に明らかとなるのである。幼子を抱く時に、私たちは、自分の心の思いのすべてを幼児に委ねるのである。そして抱く者は抱かれるものとなり、その思いのすべては、主のものとなるだろう、というのである。もし、人が神と出会う場所があるなら、自分の得意な所、光り輝く所、自慢の所でお会いすることはできないだろう。余人には、明らかにすることのできない、暗い魂の奥底に、助けてくれと悲鳴を上げている魂の呻いているその所でしか、汚れた冷たい飼い葉桶に眠られている幼児と、向かい合えるところはないだろう。そこで私たちは初めて、主のみ名を呼ぶことができる。
私たちは、クリスマスから新年に向かう歩みの途上にある。来るべき年のことは、皆目見当がつかない中での出発となる。それでも、その手に幼子を抱いて、「わたしはこの目であなたの救いを見た」ということのできる人生の歩みが、必ず備えられていることを思う。そのようにこの年も歩んで来たのだから。