「黙って座れば、ぴたりと当たる」とは昔の占い師のセリフだが、近い未来には、AIの進化によって、医療がその言葉のように変貌することが、予測されている。即ち、病院の椅子に座れば、AIが身体を隈なくセンシングして、異常を発見し、即座にそれに対応する薬をも調合し、帰る時には受け取れるようになる、というものである。勿論、まだ夢のようなお話である。
「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」、使徒パウロの有名な言葉であるが、医療というものも、まさに「見えないもの」を極めようとする人間の絶え間ない努力の積み重ねによって、進展してきた。しかし、今回の「新型コロナ・ウイルス感染症」のように、これほど医療が進歩したように見える現代でも、目に見えないほどの微細なウイルスに対抗する方策を探るのは、決して容易なことではない。病気は、人間の生命に深い打撃を与え、時には死をもたらす厄介者であるが、それでも「生命」とは無関係の邪悪な存在ではなく、それもまたこの世界の「生命の諸相」の中の、ひとつの現象でもある。ひとつの生命が、もうひとつの生命に働きかけて、一方の側にとっては不都合や不具合を生じさせる、今も病気とは不思議で神秘的な側面を持っているように思われる。
古代人たちは、近現代のような医療の知識は持ち合わせていなかったし、検査技術も道具も貧弱なものであったから、病気の原因については、非常に幼稚な見方をしていたことは当然である。しかし、「病気」の持つ神秘性、不可思議な面については、深く洞察を行っていた。即ち、見えない「霊」の働きによって、身体や精神の異常がもたらされる、と考えたのである。そして人間に悪い影響を与えるがゆえに、「悪霊」の仕業に帰せられたのである。
主イエスは、弟子たちに、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病を癒す権能を授け、神の国を宣べ伝え、病気を癒すために遣わされた(ルカ9:1~2)」という。ここから病気の癒しと神の国の宣教は、密接に結びついていることが分かる。つまり「ことば」を宣言することによって、「悪霊」を追い出し、「病」を癒すことが、主イエスの宣教活動の中核にあったことが理解されるのである。
「病気」の原因を「悪霊の仕業」に帰するのは、古代の素朴な神話的思考によるものであろう。現代ではそれが「ウイルス」であり「細菌」であり、「免疫や遺伝子」の不具合であり、「生活習慣」に起因することが分かって来て、徐々にその正体が明らかにされた訳である。医学によって、その正体を究明された「悪霊」に対して、様々な対抗手段が試みられる訳である。ところが主イエスの活動のもう一つの大切な側面、「宣教」つまり「ことば」から見るときに、現代人が無視してしまっている重要な問題が、浮かび上がって来るのではないか。
「お医者さん、画面を見ないで僕を見て」という川柳がある。大病院など数時間待合室で待たされて、医師の診察はほんの3分間、という医療事情を反映した川柳である。機械任せ、検査任せ、肝心のことばが欠け落ちているというのである。先に語った「黙って座れば」の診察も、やがてそうなるだろうが、「ことば」抜きに、それで人間の「安心」と「幸せ」が本当にもたらされるのかという疑問が残るのである。
今日のテキストにおいて「悪霊」も「病気」も、非常に人間的な側面を有していることに注目させられる。31節以下のパラグラフで、悪霊は主イエスとやり取りをする。34節で「かまわないでくれ」つまり「ほっておいてくれ」、あるいは「関係ない」という台詞を悪霊が語ることに、注目させられる。「関係ない」という言葉が、この国ではやり始めたのは、1970年頃に放映されたドラマ、「木枯し紋次郎」に端を発すると言われる。つまりその時代に、この国の高度成長がピークに達し、大阪万博の開催に象徴される経済的な豊かさとは裏腹に、人間の絆の喪失や断絶が露わになって来たのである。
医療の高度化によって「病気」の治療法は、従来に比べて格段に進化した半面、病気の背後にある「病」の問題が、深刻化したのである。家族の誰かが病気になれば、その病気は、家族のひとり一人に影を投げかける。治療のための費用や生活を支える金銭の算段はもとより、家族の絆をも揺るがす。さらに病気に苦しむ時にも、誰とも「関係しない」、人間の交わりを絶たれた孤独な闘病が、話題に上るようになったのである。「関係ない」という言葉に、最も深刻な「病」の姿が示されているのではないか。
さらに続いて、シモンのしゅうとめの癒しが語られるが、彼女の「高熱」について、主イエスに出会ったときに、その尋常ではない熱が下がる、というところに、いろいろな想像が働く。彼女は、義理の息子のシモンが、良くない仲間との付き合いを殊の外、心配していたのではないか。その頭目たる主イエスを目の当たりにして、非常に安心したのではないか。心配が安心に変わった。だから彼女は、癒された時に、一同をもてなしたのである。ここに「病」の癒しとは何かが、隠喩として語られているであろう。「病気」は、薬によって、あるいは医療によって回復されるであろう。しかし「病」は、人とのふれあい、語り掛け、対話や応答によって、癒される。そして癒された時に、人は、回りにいる人々をもてなす、つまり運命や人間関係への愚痴や不平不満から、解放されて、他人や自分自身と和らぐことができるようになる、ということである。
古代人は医学や医療についての知識はないに等しかった。ところが「病気」の一番深刻な問題が、「病」にあることを見抜いていた。「病」は現代医学でも、簡単に治すことのできないものである。たくさんの「病に苦しむ人々」が、主イエスの下に連れられてきたと言われる。そして主イエスは、それらの人ひとり一人に手を置いて癒されたという。「病に苦しむ人」を主イエスは拒絶なさらない。「画面を見ないで」、 病人を真正面から見て、手を置いてくださるのが、主イエスである。主イエスはまさしく、私たちの「病」を癒すためにお出でくださったのである。