「折々のことば」の執筆で知られる哲学者の鷲田清一氏は、20年ほど前に、人をケアする仕事に携わる人から「生の声」を聞くために、あちらこちら旅に出たそうである。その訪問先のひとつとして、北海道日高管内浦河町にある精神障害者の活動拠点「浦河べてるの家」を訪れた。そこでこういう話を聞く。学校や施設などで、いさかいやけんかが起こり、物を壊してしまったとする。普通は「なぜこんなことをしたのか」と言われて詰問や叱責される。しかしここでは叱られるのではなく、その当事者が修繕代金を請求されるというのである。「ここは責任を取らしてくれるのがいいね」。こんなメンバーの言葉が印象的だ。障害者が苦労を引き受ける主人公になれる。その機会を守るのがこの拠点が存在する理由という。鷲田氏は責任とは「進んで負うもの」だと説いている。だから、それを弱い立場の人に押しつけたり、自分が負うことを避けようとしたりする姿がまん延するこの国の現実を憂うるのである。(『人生はいつもちぐはぐ』角川ソフィア文庫)
「損害を償う」ことの背後にある論理が、「苦労を引き受ける主人公になる」ということだという。そして「進んで負うもの」だというのである。こう聞くと「責任」を取れる人というのは、何と「強い人」なのかとつくづく思わされる。そういう「強い人」になるためにはどうしたら良いのか。しかし、そもそも人間として、「強い」とか「弱い」とかは、どういうことを指すのだろうか。普通は「健康で体が丈夫な人」とか「物事に動じない人」とか「すぐに諦めず粘り強い人」そういう人が強い人、という答えが返ってくるだろう。しかし、全く病気をしない人はいないし、どんな災害や災厄に直面しても、全く動揺しない人などいないし、諦めない人は、ただの頑固おやじだったりする。歌人の伊藤一彦さんに一首がある。「雨に負け 風にも負けつつ生きてゐる 柔らかき草 ひとを坐(すわ)らす」。雨にやられ、風に倒れた草は時として、人を休ませ、慰める。誰かを休息させ、慰撫できる人というのは、また違った意味での「強さ」であろう。
さて今日の聖書個所、「強さ」「弱さ」が問題にされている。それも「食べ物」を巡っての議論である。世の中にはいろいろな食べ物があるし、人間はこれまで生きるために何でもかんでも食べてきた歴史を持つ。縄文時代の遺跡から、「ふぐ」の骨が発掘されて、古代人がすでに猛毒の魚を食べていたことが確認されている。毒のある魚を食べることが、人間の強さの証明なのか、と言えば、「ふぐは食いたし、命は惜しし」で、結局、理性よりも食欲が優った、というだけのことであろう。
但し、古代は人間の生活や営みのすべてが、宗教性と関わって理解されていたことが、現代と違う点である。その典型的な観念は「穢れ」である。現代の私たちは、「衛生」の観念から手を洗う。しかし古代人は「宗教」の観念から手を洗ったのである。実際、汚れやウイルスが除去されるかどうかは、全く問題ではなく、手を洗わなければ「穢れ」がつきまとう、という宗教観念が支配しているのである。
多くの場合、「穢れ」は「食べ物」と密接に関係している。不衛生なもの、毒のある食べ物は身体の健康を損なうが、「穢れ」のある物を食べれば、目には見えない「穢れ」が、内から生命を蝕んでいく、と信じられたのである。しかも厄介なことは、その「穢れ」は人から人へ伝染するのである。現在「新型コロナ禍」のただ中にあるが、それに対するこの国の人々の感覚は、無意識ではあろうが、それが「穢れ」的なものとして受け止められているのではないか。さらにそれがエスカレートして、13節に、食べ物を巡って「裁き合う」事態が、教会において起こっている、というのである。感染した人への、容赦ない「裁き」が語られている。この国にも似たような感覚はないか。
どんな食べ物が問題なのか。それは偶像に供えられた肉を食べることを巡ってである。それは「身を穢すこと」になるのではないか、というのである。「偶像に供えられた肉」を食べるとは、知り合いや友人のパーティに呼ばれることでもある。家で何か祝い事や忌事がある時、まず神々に犠牲をささげるのが、ヘレニズム世界の慣わしである。偶像は口を開けて、犠牲の肉を食べはしないから、祭司にいくらかお礼をして、あとはお下がりの肉を貰って家に帰る。犠牲の動物、一匹分の肉の量は大部のものだから、隣近所、知人友人が招かれ、宴会を開くことになる。何せ冷蔵庫がないから保存できないのである。人々を招いて、今度は招き返されて、人間関係を密なものにしていくのである。古代教会のキリスト者と言えども、全く教会以外の人々と没交渉であったわけではない。異教徒とも付き合って、良好な人間関係を作ることが、必要だったわけである。
ところがこれに「異」を唱える人がいたのである。「穢れ」はどうなる、というのである。そういう人々は、かたくなに肉を食べることを拒絶し、食べる人を非難したのである。勿論、「穢れ」など気にせず食べている人は、食べない人の頑固さ、頭の硬さを馬鹿にする。主イエスご自身が、「すべてのものは清い」、と宣言されたではないか。但し、主イエスはそれに続けて、「食べ物は人間を穢すことはない、食べて便所に行って出てしまうだけだ。ところが人間の口から出る言葉の方が、どれ程人間を穢すことか」。この言葉の通り、強い人も弱い人も、互いに激しい非難の応酬で、教会の人間関係がずたずたになってしまっている、という次第である。
世の中に、あるいは教会にも、「強い人」とみなされる人、あるいは「弱い人」とみなされる人々はいる。私たちは、いろいろな状態の強さ弱さ、を抱えている。「強い」から良い、価値がある、というものでも、「弱い」からだめだ、値打ちがない、というものでもなかろう。「強い」「弱い」は人間の目が判断した評価に過ぎない。それは「一つの」評価である。本当のその人の真実は、どこに現れるか。22節「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前に、心の内に持っていなさい」。この章句は、このテキストで最も肝心なみ言葉なのだが、いささか訳しにくい。「あなたは、あなた自身によって持っている信仰を、神の前で持ちなさい」。つまり信仰というものは、誰か人に対してこれ見よがしに表すものではなく、神の前で表明するものだ、というのである。誰かを裁く時、人は自分の信仰を相手に押し付けているのである。たとえ人に対して沈黙していても、その真実は神のみ前にあり、そしてその沈黙を用いて、神は大胆に語られるであろう。
長く沖縄の地で、「沖縄戦」の体験者の聴き取りを続けている門野里栄子氏がこう記している。「75年という年月を経て、初めて語る人たちがいる。沖縄戦の体験とは、人の一生と同等の時間を要さないと語られないものなのか。しかもその背後には、いまだ発せられない沈黙が累々と横たわっている。特異で理解困難と思われる出来事が、沖縄では身近にある。私の最初の聞き取りも、沖縄戦の体験を語らない両親を持つ人だった。
自分がわからないことを尋ねると、何でも答えて解説してくれる父が、戦争体験についてはほとんど話さなかった。戦争をテーマにした番組や映画を一緒に見ていた母に、当時のことを尋ねても『どれも戦争は映し出せないよ』とかたくなに語ろうとしなかった。だからといって何も伝わっていないわけではない。父は就寝中にうなされることがあった。家族はみんな知っていた。過酷な戦争体験をしたからだろうと思っても、誰も聞かなかった。また父は、体調が悪いにもかかわらず、暑い日差しの中を慰霊祭に出て行った。なぜそこまでするのかを尋ねると、『慰霊祭は沖縄の人のためだけでなく、みんなのためにあるんだよ』と返ってきた。それまで自分は、沖縄だけが犠牲になったのだと思っていた。
両親とも他界した今、沈黙は沈黙のままである。しかしながら、娘が『戦争』というキャンバスの上に、父の言葉や行動の断片、学んだ知識などを描き込んでいく中で、そこに生じた空白(沈黙)を背景から読み取った時、『沈黙』は語る口を与えられる。
娘はそこに、戦争の悲惨さだけでなく、希望を読み取ろうとする。『戦争さえなかったら、人は何でもできる』と言った父の言葉には、『平和であれば、人はいろんな可能性に満ちている』という意味が込められていたのではないか。父は廃虚と化し灰白色になった首里で、生まれてくるわが子に『みどり』と名づけた」(琉球新報<南風>6月18日付)。
「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前に、心の内に持っていなさい」、神はそのみ前にあるひとり一人の人間の真実を深く受け止め、たとえ沈黙であっても、その真実を用いて、大胆に語られるだろう。