聖書の世界の中央部、パレスチナ(カナン)地方の中央部を流れる川、ヨルダン川、北方シリアに水源を発し、途中ガリラヤ湖を経て死海に注ぐ河川は、「下降する川」、さらには「洗い流す川」という意味があり、どちらにしても、「常時、水が流れている」という意味合いが込められている。地中海性気候の乾燥地帯にある地域では、雨が降る雨期だけに水が流れるワジ(涸れ川)が一般的で、常に水が流れている川は、非常に珍しいのでこのように名付けられたといわれる。川であるなら水が流れていて当たり前、というこの国の先入観は、広い世界から見れば必ずしも妥当しないが、「水」が人間の生活、もっといえば生命を左右している事実は、共通である。
聖書の世界、古代近東世界は、メソポタミア文明、そしてエジプト文明の2つの文明の発祥地として知られているが、古代文明は共通して「大河」を拠り所にして成立しているのである。前者はチグリス川、ユーフラテス川の間(メソポタミア)に成立した文明で、主都バビロンの町には、大河から引かれた運河が、市街を縦横に張り巡らされていたことが知られている。他方、エジプト文明は、「ナイルの賜物」と称えられたように、豊かな水量に養われた穀倉地帯を背景に、築かれた文明である。現在は砂漠の中に屹立しているピラミッドも、建設の当初は緑豊かに風に波打つ麦畑の中に位置していたという。
創世記1章の「天地創造」物語に先んじて、2章の創造物語は成立していたと見なされ、大体4~5世紀前に遡る伝承であると考えられている。しかもそこには「文明」と「水」の緊密な関係が、強く意識されていると言える。6節「しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した」。この章句の後に、直ぐに最初の人、アダムの創造が語られるのも、人と水の深い関係が原初的であることを示唆している。
10節以下になると、文明と水との関わりはさらに具体的に記される「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった」。ここに登場する「チグリス・ユーフラテス」は、言わずと知れたメソポタミアの大河であり、残る「ピション、ギホン」は具体的にどの川を指すのか不明だが、ナイル川を始めとするアフリカの河川を指すのではないかと考えられている。そして「クシュ」、エチオピアのことかと推定されているが、ここも古代王国の隆盛した地であり、「金、琥珀、ラピス・ラズリ」等は、エジプト文明における美術工芸品材料の代表格であることから、文明における「水」の果たす役割の大きさが、強く意識されていると言えるだろう。
「水」、「河川」が語られた後に、15節以下には人間の営みが記される、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。「園のすべての木から取って食べなさい」。水に潤された大地を耕すことで、人は自身の身を養う糧をふんだんに得ることができ、そこから文明の基が築かれたことを暗示しているのである。但し、そうして築かれる「文明」を、無批判に称賛しているのではなく、17節「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という具合に、超えてはならない限界があること、そしてその限界を踏み外す人間の危うさも同時に指摘されているのであるが、それは次章に記される「堕罪物語」で展開されることになる。
さらに「耕す」という人間の営みは、18節「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という章句に象徴されるように、人間が社会性を帯びて生活を紡いで行く姿、つまり集団を作って群れて生きるあり方も共に記されることに、留意したい。水が耕作を可能にし、耕作が社会を生み出し、ひいては文明を構築してゆくという人間の歴史の歩みを、素朴な物語の中に展開するのである。
以上のように、創世記2章の創造物語では、文明における「水」の果たす役割の重要性が語られている訳であるが、その主張の中心に置かれているのは、そもそもその水が、どこからもたらされるのか、という根源的な問題である。10節「エデンから一つの川が流れ出ていた」と伝えられるように、「水」は神の園「エデン」から湧きあふれ、豊かに流出するのである。もし源がせき止められ、寸断されるなら、それは「生命」の存亡に直結するであろう。川から水を引く技術を、人はさまざまに考案し開発するであろうが、その水源自体は、人間が作り出せるものではなく、ただ神の恵みなのである。労働、飲食という人間の生活、ひいては文明を支える源は、自らの手の内にあるのではなく、その根はひとえに神の恵みなのである。これを忘れる時に、文明は悪魔の形相を呈するのではないか。
「『アフガン問題とは、政治や軍事問題でなく、パンと水の問題である』。アフガン空爆の折、私たちは声を大にして叫び続けてきましたが、遂に大きな問題としては知らされませんでした。旱魃は、明らかに年々悪化の兆しを見せています。国土の8割以上を占める農村地帯で、自給自足の村々が確実に消えてゆく。村に住めなくなった人々が職を求めて大都市にあふれ、さらにパキスタンに難民化する。この構図は少しも変わっていません」(会報85号)、ペシャワール会の中村哲氏は、繰り返し「水」と「人間」の密接なつながりを語っている。「水」の枯渇と回復という問題を武力で解決できることはそもそもできない。そして荒れ野に水がほとばしった時に何が起こるのか、「一草一木もなかった所に、生命が躍動する。帰ってきた難民たちの家々が水路沿いに建ち並び、子供たちや家畜が仲良く水浴びをし、主婦が洗濯をします。鳥やトンボが舞い、アメンボが水面を歩く。小魚が群れて泳ぎ、水辺には自然の水草と、4、5メートル以上にも成長した柳並木が陽に映えて鮮やかです」。
エデンの園から恵みの水は流れて来る、それを忘れたことで、人間は相争うようになり、そこには荒れた大地が姿を見せるのである。主イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」、(ヨハネ福音書4章14節)と言われる。神の泉から水を引く術を、わたしたちは知恵を出して再び見出す必要があろう。そうすれば人は再び自らを耕す者として回復されるだろう。