「エッサイの切り株から」イザヤ書11章1~10節

アドヴェント・クランツに4つの灯が点り、次の聖日には、喜びのクリスマスを迎える。

クリスマスと聞いて、この国の人が真っ先に思い起こすのは何だろうか。やはりクリスマス・ケーキではないか。さる大手のパン企業は、9月に入るとはや、クリスマス・ケーキ用のスポンジを焼き始めるそうである。

クリスマスには特別なお菓子を食べる、というのがどこの国でも定番のならわしであろう。甘いものは心(脳)に喜びを増し加えるそうである。もちろん体重も増し加えるのだが。この国では赤いイチゴの乗った生クリームの白いケーキであるが、この風習はある洋菓子屋の画策だと言われる。クリスマスのケーキとして、つとに有名なのは、フランスで食べられるという「ブッシュ・ド・ノエル」、訳せば「クリスマスの切り株」である。スポンジを巻いて筒状にして、茶色のクリームを塗って年輪を描いて、丸太の切り株に見立てる。なぜこういた形のケーキが食されるようになったか、その起源について、こういう説明がある。

「主イエスはとても寒い家畜小屋で誕生されたので、せめて小さなお身体を暖めるために、夜通し暖炉に薪をくべて燃やしたことから、その薪をかたどった」とか、「クリスマスに燃やした薪の灰が厄除けになる、また樫の薪を暖炉で燃やすと無病息災になる」という北欧の言い伝えを元にしたという。「灰」は死と再生の象徴である。また「貧しくて、恋人へのクリスマス・プレゼントが買えなかったあわれな青年が、自分の切り出した薪をプレゼントした」というエピソードからとも言われている。どれも成程とは思うが、大きな丸太の薪を燃やして暖を取り、厳寒の季節を忍耐し、何とかしのげば、また温かな春に巡り合うことができるという、「希望のしるし」のような印象を受ける。薪を燃やし、その炎を見つめることで、人間は本能的(アプリオリ)に安心を覚えるのであろう。

「ブッシュ・ド・ノエル」、クリスマスの切り株は、聖書にも無縁ではない。非常に有名で、印象的なみ言葉が語られるのが、今日の聖書個所である。旧約の預言者の筆頭、イザヤによる「メシア預言」のひとつである。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる」。先ほど歌った讃美歌の歌詞の元ネタになっている章句である。「エッサイ」とは、ダビデの父親のことで、ベツレヘムの辺境の野で八人の息子たちと、羊を飼って生活をしていた人物である。その一番末っ子のダビデが、後に全イスラエルの王として即位することになる。その父親のエッサイの名を被せた「株」、これは「切り株」のことである。エッサイという木の幹が、切り倒されて、切り株だけ残っている。間伐材を切り倒して風通しを良くして、森の健やかさを保つ、というのではない。残すべき大木が切り倒されてしまう、そういう痛ましく無残な風景が語られている。実際、ソロモンが王神殿や宮殿を建築する際、レバノンの森の香柏を切り出して用いたが、これでレバノンの森は、丸裸になったという。かの王はSDGsなどまったく頓着しなかったらしい。現代人も同じようなものだが。「切り株」とはどういう訳か。どうしてその大木は切り倒されたのか。

イザヤが活動した時代は、ダビデの治世から時を隔てること3世紀の後である。イスラエル王国は南北に分裂し、互いに覇を競い、相手をけん制していた時代である。当時の大帝国アッシリアの侵攻はとどまるところを知らず、それを受けて北王国は、あっけなく滅ぼされ、住民は捕囚により根扱ぎにされてしまった。南王国のユダは、強大な政治力、軍事力を持つアッシリアにお愛想を言って尻尾を振り、多額の朝貢によって命乞いをして、何とか国の体裁は保っているという状態であった。

このような時代、世の常として、民衆は強いリーダーシップを持つ強権的な指導者を求めるものだが、ユダ王国においてもイスラエルの黄金期を築いた「英雄ダビデよ、もう一度」という「救い主」を待ち望む気運が高まっていたのである。そういう期待を抱いている民衆に。イザヤはこう預言するのである。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる」。

これは不気味な預言である。エッサイの大木は切り倒されて、切り株になってしまうだろう。つまり代々の王位継承者たるダビデ家は、無残に切り倒される、つまり北の王国ばかりか、自分たちの住むユダ王国もまた、程なく滅亡するだろう、という絶望の言葉なのである。この裁きの宣言を聞いて、人々は落胆し、あるいは怒り、嘆き、大きく動揺したことは間違いない。但し、旧約の預言者は、裁きを語ってお終い、あなたが悪いんだから、自業自得、自己責任で後は自分で何とかしてくれ、とは言わない。人々の罪と苦悩を前にしてどうするか、ここが真の預言者かどうかの分かれ目なのである。

「その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる」と預言者は続ける。この教会の周辺の街路樹は、イチョウ並木であるが、根元のあたりをよく見ると、しばしば瑞々しい若い小さな小枝が生えていることに気づかされる。これは難しい字だが「蘖」(ひこばえ)と呼び、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のことで、太い幹に対して、「孫(ひこ)」に見立てて、「ひこばえ(孫生え)」という。元気のよい若木であるから、「すねかじり」のように、親の幹の養分をみな奪ってしまって、元の親木を枯らしてしまうことも多いという。よく知られている光景は、切り倒された大木の切り株の根元から、たくさんの芽が生え出して、それが成長し、元の大木にとって代わり、やがて樹木を再生させ、ついには森を蘇らせる。そのように、神は無残に切り倒された切り株から、新しい芽を芽生えさせ、命を蘇らされるのだと預言者は言うのである。

しかしよく注意して読んで欲しい。イザヤは「ダビデの株から若枝が育ち」とは言わず、ダビデの父親「エッサイ」の名前を掲げているのである。「ダビデ」という固有名詞は、偉大な王の、比類なき最も栄光ある名であると皆から受け止められているが、「エッサイの子」という時には、そこには密かに軽蔑的な意味合いが込められているのである。先代のサウル王がダビデを「エッサイの子」と呼んだ時、それは「お前はたかが羊飼いの子に過ぎない」という侮蔑的なニュアンスが込められているのである。

既述の通り、「エッサイの株」という時の「株」とは、林の茂みの中で切り倒された木の切り株で、これは全く絶望的な状況を示すしるしであった。そのすっぱり切り取られた切断面を見る限り、もはや何も生えてくることが望めない切り株、これはダビデ王朝の根底からの否定をあらわし、その腐敗しきっていたところに大なたが振るわれるということなのである。即ち、「メシア」、救い主があらわれるのは、栄光のダビデ王朝よりむしろ、絶望的な切り株の断面から、さげすまれた目立たないエッサイの子孫から、新しい若枝が出てくるのだということなのである。

神の立てられるその若枝とはどのようなものか。「目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」。これが預言者の伝えたエッサイの若木の有様である。こういう資質の指導者を、皆さんはどう評価するか。普通、優れた人のことを「目端が利く」とか「聞くにはやい」とか言うが、たくさんの情報をいち早くに見聞きし、捉え、分析し、先手先手で策を練り、打つ手を打って行く、ことが普通、指導者には求められるだろう。イザヤはまさしくそういうタイプの人間である。

ところがそうした預言者のプライドを、かつて神は打ち砕かれたのである。「お前は人々の目を見えなくさせ、耳を聞こえなくさせよ」。「理解」ということに絶大な価値を置く理知的な預言者イザヤにあって、これは耐えがたい告知であったろう。得てして「聞く耳を持っている」と自負する者は、自分の都合のいいことしか聞かないものである。この時の神の言葉が、メシア預言の中核となっている。

イザヤの語る神の若木とは、目はうすぼんやりとしていてよく見えず、聞く耳も鈍くよく聞こえず、およそ「目から鼻に抜ける」というようなどちらが得か損か、有利か不利かというような状況を瞬時に判断する、そんな敏感なレスポンスとは無縁の人だという。いわば「愚直」、ただ目の前のものと取り組み、格闘してゆくような人である。だからひたすら弱い人、貧しい人のために寄り添うのである。そして彼の武器は、戦車や剣や刀等の武力ではなく、ただ口から発せられる言葉だけである、という。人々は、この来るべき「メシア」についての預言をどう聞いたであろうか。

この師走の半ばを過ぎ、先日、「今年一年の漢字一字」、が発表された。こんな新聞記事が目に留まった。「21年ぶりに選ばれた。というと快挙のようだがむしろ悲しみや憂いばかりが胸に浮かぶ。今年の漢字は『戦』だった。きのう京都・清水寺で大書されたその一字から滴る墨汁は戦地で流される血や涙を思わせた。選ばれた理由は言うまでもない。ロシアのウクライナ侵攻だろう。米中枢同時テロが起きた21年前と同様、世界中に大きな衝撃を与えた。市民を含めて大勢の犠牲者が出ている。10カ月にも及ぶのに終わりが見えない。(中略)『安』が僅差の2位だった。真逆の感じを抱かせる2字が競り合うとは。円安や元首相から連想されたのか。1年後には内外とも平穏だったと振り返り、「安」が選ばれますように」(12月12日付「天風録」)。

朽ちた「エッサイの切り株」から、神は緑の若枝を生え出でさせられるのである。それ以外に、神の救いの出来事はない。あのベツレヘムの片田舎の家畜小屋、その飼い葉桶に、静かに救いのみ子は誕生される。戦いの世に、その只中に、裏側に、人がしかとそれと知らぬ夜に、神の救いは静かに訪れ、それを知る人に平安が訪れる。次週はクリスマス礼拝である。静かに、しかし確かに訪れる、神の若枝の誕生を、共に喜びたい。