説教『十字架に救いあり』(ヨハネ19:13~30)

2014年4月13日          棕櫚の主日礼拝・説教要約
説教『十字架に救いあり』(ヨハネ19:13~30)

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◎私達は受難節の日々を祈りをもって過ごしてきましたが、今日、受難週の初日、棕櫚の主日を迎えています。この日、主は小さなロバに乗って都エルサレムに入られましたが、多くの人々が手に棕櫚の葉の枝をもって主を迎えたと言います。主はこの日から6日間、十字架に向かって歩まれたのでした。今日は、御言葉を通してイエス様が何のために十字架にお架かりになったのかを共に探り見て参りたいと思います。
◎今日、選びました御言葉はヨハネ福音書19:13~30です。ヨハネ福音書は4つの福音書の中で思想的に最も深いものがありますが、今日の箇所も大変深い内容を持っています。今日は、ここからメッセージを聞いて参りたいと思いますが、その前にどのような経緯で主が十字架にお架かりになったのを見ていきましょう。主は都エルサレムに入られて以降、都に通われて神殿で神の国について教えられました。そこでユダヤの宗教指導者達と論争が起こり、主は圧倒されます。そして、遂に指導者達は主を殺すことを決断します。それは「妬み・嫉妬心」によると聖書は書いています。そして、都に入られて5日目の木曜日、最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈られた後、主は逮捕され、大祭司の家で最高法院の裁判が行われ、主を死刑にする判決が下されました。さらに、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督ピラトにより死刑判決を下され、主は十字架に架けられたのでした。ここから人間の罪・醜さ・弱さによって主が殺されたことが分かります。今日は御言葉に込められた3つのメッセージをお伝えして参りたいと思います。
◎最初に19:19~22の記事に込められたメッセージをお伝えします。ここには、主がお架かりになった十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられたとあります。これは、総督ピラトが書いたものでした。ユダヤ人は「ユダヤ人の王と書かないで、ユダヤ人の王と自称した」と書いてくださいとお願いするのですが、ピラトはそのままにします。そこにはピラトの思いと感情があったと思われますが、何よりも重要なことは、そのようなピラトの思いと感情を超えて、その罪状書きが真実を告げていると言うことです。聖書によれば、主は十字架の後に墓に葬られましたが、三日目に復活され、この世の勝利者・支配者・王となられました。罪状書き以上のこの世の王となられたのです。ここに人間の思いを超えて神の御計画が実現したことを知らされます。しかも、その罪状書きはヘブライ語・ラテン語・ギリシャ語で書かれていたと言いますから、主イエスが世界の王であることが世界中に告げられたことを伝えています。私達はここに人間の業を超えて神の御計画が実現していくことを見ることができます。
◎次に19:25~27に込められたメッセージを見ていきましょう。ここには、主が十字架につけられた時、4人の女性達がいた中で、母マリアに向かって「婦人よ、御覧なさい、あなたの子です」と一人の愛する弟子を紹介し、弟子には「あなたの母です」といって母マリアを紹介したとあります。私達はここに主の母親に対する深い配慮を見ることができますし、そればかりか、人と人を結びつける主の存在の意味を知ることができます。ある人は、ここには後に対立したユダヤ人教会と異邦人教会を結びつけようとした主の願いが込められていると書いていますが、私達は十字架の主が人と人、教会と教会を結びつける和解の主、平和の主であることを知らされるのです。さらに、主は母マリアに対して「婦人よ」と呼びかけています。違和感を覚える方もおられるかと思いますが、これはマリアに対してイエス様を息子としてではなく、救い主として受け入れることを求められたからではないかと思えます。実際、マリアは後に教会の一員としてイエス様を救い主として信じて行きました。ここに主イエスの深い導きを見ることができます。
◎最後に19:28~30に込められたメッセージを見ていきましょう。ここで最も重要な言葉は「成し遂げられた」という言葉です。これは、神の救いの御計画が成し遂げられた、実現したということを意味しています。ヨハネ福音書3:16に「神はその独り子をお与えになるほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とありますが、この言葉が実現したこと、神の救いの御計画が実現したことを宣言しているのです。それはイエス様にとっては自分の使命を果たしたことであり、私達にとっては私達の罪が赦され、私達の救いが完成したこと、実現したこと、これまで私達を苦しめてきた罪や死、悪、悪魔の力は消え去り、神の救い・愛・恵み・命・祝福が支配していること、この世界も私もまったく新しくなったことを意味します。もちろん私達は終わりの日が来るまで試練や困難があることでしょう。しかし、主自ら「私は既に世に勝利している」と言われたように十字架による救いは決定的なのです。私達はこの救いによって新しく生まれ変わり、神の愛と恵みの中に生きることができるのです。