「後ろを振り向くと」 ヨハネによる福音書20章1-18節

「後ろを振り向くと」 ヨハネによる福音書20章1-18節(2018.4.1、イースター礼拝)

祝イースター。今年の「復活祭」は今日4月1日、この教会での、私の最初のお勤めが、この日から始まるというのも、何か因縁じみている。4月1日ということで、海外ではひとつのうわさが広まっていた。4月1日はかの「エイプリル・フール」である。企業や有名人が、ブログやホームページでまことしやかな、洒落た嘘を吐くというのが、最近の流行である。例えばこんなのがあった「あの頃の毛つやを取り戻す。ねこの皆さま専用、ドモホルンニャンクル誕生!by再春館製薬」。「エイプリル・フール実施のために、今年のイースターは4月2日に延期となりました」、というのである。勿論これは、エイプリル・フールの嘘である。

今日はヨハネ福音書からお話をする。ヨハネの復活物語である。他の福音書と読み比べて、印象的なのは、最初の復活の証人になった人たちの、有様、行動の様子である。主を葬った墓に赴いたマグダラのマリアが、墓をふさぐ大石が取りのけてあるのを見て驚き、走って帰った。墓の中をよく確かめることなしに走り出すとは、余程せっかちである。ドイツ人は考えてから歩き出す。イタリア人は考える前に走り出す。日本人は他の人が走っているのを見て、自分も走り出す。そして彼女からその情報を聞いたペトロとヨハネは、これも驚いて、なんと主の墓まで競争をしている。この競争はどうやらヨハネが勝ったらしい。これを記念して、古代教会が「復活記念マラソン大会」を企画・開催した、というのは寡聞にして聴かない。この時代、大の大人が、公の場で走る、というのは異常な行動である。普通ならそういうことをしない。走ると衣の裾がまくれ上がり、腿まであらわになり、不様で恥だからである。しかし、こういう記述で、ヨハネは「復活の出来事」の驚きの大きさを、読者に動的に印象つけようとしている。

一方、物語の後半では、マリアのみを登場させ、一転静かに、しとやかに復活の主との出会いが語られる。弟子たちにご注進に行ったマリアは、いつ墓に戻って来たのだろう。ここで復活の主と再会する際に繰り返される「一つの用語」がある。これも身体表現、動作を表す言葉である。それは「振り向く」という言葉である。14節および16節。彼女は、「振り向いて」主を見たと記されるのである。なぜ「振り向いて」見るのだろう。
俵万知氏の歌にこういう作品がある。「振り向かぬ子を見送れり 振り向いた時に振る手を 用意しながら」。自分の子どもが幼稚園に行くときのひとこまの情景が語られているのだろう。門の前で別れて、元気よく園舎の入口に駆けて行く。一時の別離である。不安な心で、自分の方を振り返って見たなら、大丈夫、見守っているよ、と励ますべく手を振る心づもりをしている。しかし、子どもは振り返らずに一目散に走り去ってしまう。親離れの始まり、成長の証だが、何となくさびしい思いが心によぎる、という感慨を歌うものだろう。

もう一つの句「一生を 見とどけられぬ寂しさに 振り向きながらゆく 虹の橋」。これはさらに嘆きの度は強い。親は自分の子どもの一生、そのすべてを目にすることはできない。もしそうなるならば、子に先立たれるということで、どれ程の深い悲しみがそこにあるだろうか。この歌は子どもの卒園の時に作られた俳句だと言うが、親として子どもの人生すべてを見ることができず、その一部しか身守れないのは、実は幸いなことだろうが、大きな寂しさでもある。だから虹の橋、つまり天国への道を登るときには、きっと名残惜しく、立ち去り難く、何度も何度も振り返って、見続けようとするだろう。「前向きな人生」がしばしば大切だと語られ、鼓舞されるが、俵氏は、人間の基本的な生きる姿勢は、「後ろ向き」だと言いたいのではないか。絶えず振り返って、生きてゆく。そこに人間の一番の本質があるのではないか、と語っているようである。

聖書の人々の人生観は、よくボートを漕いで進む人に譬えられる。後ろを見ながら前進する。旧約の預言者エレミヤはこう語っている。6章16節「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」ところがこのみ言葉を聞いた人々は答える「われわれはそこを歩むことをしない」。古からの道を振り返って、どれが幸に至る道かを問いかけよ。そしてその道を歩め。後ろ向きの道、つまり歴史を眺めることこそ、神のみわざとみ言葉を知る歩みなのである。実に聖書の神は、歴史に働かれ、歴史を導かれる方なのである。今、将来のヴィジョンばかり強調される現代、またこの国にあって、しっかり後ろを振り向いて、神の言葉を聞き取らねばならない時なのだろう。
しかし今日の復活物語のマリアの二度の「振り向き」が表している事柄は何か。なぜ二度も彼女は振り返るのか。福音書に描かれマグダラのマリアは、現代的に言えば、「前向きに」張り切って生きて来た人だった、悪霊に憑かれた如く人生を走り続ける人。ヨハネ福音書では、他の女たちを差し置いて、一人でまず墓に行くほど積極的である。何度も墓を覗いたり、弟子たちに知らせに大急ぎで走って帰ってくる。そのように前向きに必死に行動する。ところがマリアは、自分のすぐ後ろに、復活のイエスがおられるのに気付かなかった。神は私のすぐそばにおられるの、気づかない。

このことについて、藤木正三牧師はこう語る「同じように後ろを振り向きながら、どうしてこういう違いが出てきたのでしょう。それは、一回目はマリアが自分から後ろを振り向いて主イエスを探したのに対し、二回目は主ご自身が声を掛けてマリアを振り向かせられたからです。マリアはイエスを求めていろいろと努力をしたのです。しかし、実はそういうマリアの後ろにイエスは既に立っておられました。ですからその時、マリアは自分自身の思いや努力でイエスを求め続けてきたことの誤りに気付いたに違いありません。つまり、自分は生きているのではなくて、イエスの命に包まれて生かされていたのだと気付いたに違いありません」。そして、マリアは「ラボニ、わたしの主よ」と言う。「ラボニ」は、「主によって生かされている」という告白に他ならない。そして後ろを振り向く必要が人生にあるのは、まさにこの「生かされている」と告白するためなのである。復活のイエスは後ろから声を掛けてくださった。その声に振り向いて私たちもまた、復活の主イエスに生かされて、蘇るのである。主はみ言葉として蘇られた。私たちも、そのみ言葉によって生かされ、蘇るのである。

前を向いているだけでは、主イエスが生きて、今も働いておられることを見ることはできない。だから自分で自分だけで命を何とかしようとする。すると本当に不様で、不平や不満に生きることになる。しかし自分の人生を後ろから振り返れば、何と主イエスの命の恵みが見えることか。「生かされて、生きて来た恵み」が分かることか。