「平和があるように」 ヨハネによる福音書20章19~31節

「平和があるように」 ヨハネによる福音書20章19~31節(2018.4.8)

 

「挨拶は心を開く魔法の言葉」という標語がある。「挨拶」漢字で書くと、結構難しい言葉だ。「挨」という漢字は、もともとは「打つ」とか「押す」とかいった意味を持っている。一方の「拶」は、「近づく」「進む」という意味を持っている。そこで「挨拶」は本来、「押して進む」「押して近づく」という動的な意味の熟語だということになる。
それが、禅宗のお坊さんたちの間で、お互いの間で問答を繰り返すことを表す熟語として用いられるようになって行く。お坊さん同士が出会ったとき、相手がどれくらい禅の知識を持っているのか、さぐりを入れながら「押して近づいて」行こう、という訳なのだろう。その意味からさらに転じて、人間同士が出会ったときに交わす受け答えという意味で、「挨拶」が使われるようになったようである。

挨拶に因む有名な禅の考案に、「隻手の音声を聞け」というのがある。片手の音を聞いて来いと言うのだが、どうしたら片手の音が聞けるか。手を空に振っても、何の音も立てない。物にぶつけても、それは手と物がぶつかった音である。さて皆さんならどうする?
さてヨハネ福音書の復活物語の続きである。「空虚な墓」伝承から始まる復活の事件は、様々な物語によって語られて行く。十字架についての物語は、ほとんど共通なのに、復活の物語は、何と多様であることか。どれが一番正確で確かか、本当はどれか、という問題ではない。復活の主イエスとの出会いは、弟子たちにとって、初代教会に集められた人々にとって多様であったということである。キリスト者が100人いれば、皆、それぞれの復活の主イエスとの出会いをしたと言ってもよいだろう。そしてその中のひとりとして、私もいる。復活の主に出会わないで、ナザレのイエスをキリスト、私の救い主と言うことはできない。
今日の個所、20章後半も印象的な場面である。復活の日の夕方、弟子たちが集まっている。「ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていた」。「恐れ、戸を堅く閉ざす」とは、弟子たちの心の有様を見事に象徴的に物語っている。自分に凝り固まって、他を寄せ付けず、周りを遮断する様子である。人生に恐れ、自分の心に鍵をかける、弟子たちもそうであったが、私たちも同じである。恐れて、鍵をかけ、自分自身ががんじがらめになるのである。

以前、教会に来られたひとりのご婦人があった。非常に険しい顔をされていた。初っ端から「洗礼は受けません、聖書の話を聞くだけです」と言われた。御主人を亡くされ、一人暮らしをされており、家業をたたみ、家も処分されたという。「それでも礼拝に出ていいですか」。良いも悪いもない。礼拝に出席を始めて、数か月経ち、随分、表情が和まれたと思ったら、「洗礼を受けさせてください」。どうされましたかと尋ねると、「主イエスの所にしか自分には行くところがありません」。どんなに鍵をかけて、閉じ籠ろうとも、みこころなら主イエスは入って来られる。
ここで主イエスは弟子たちに「あなたがたに平和」と言われる。まずこの言葉は、元々「シャローム」であったろうと想像される。「平和あれ」これはユダヤの一般的なあいさつの言葉である。「こんにちは」、そして「さようなら」。何度、師と弟子の間で、親しい家族や友人のように交わされた言葉だったろうか。これを聞いて弟子たちは「喜んだ」とある。そうだろうと思う「以前のように」「懐かしい声で」「あの時と変わらないことばで」話しかけてくださったのだから。主を裏切り、十字架から逃げ出し、心に鍵をかけ、閉じこもる弟子たちに、主イエスは変わらずに手を伸ばして下さった。「喜んだ」とは弟子たちが「変わった」ということである。悲しみに沈む者が、喜ぶようになる。
さらにこの「平安あれ」とは、14章27節、最後の晩餐で弟子たちに約束されたみ言葉「わたしは、あなたがたに平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」を弟子たちに思い起こさせる言葉である。主イエスは言われた「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている」。こう宣言される方の与える「平和」なのである。どんなに心に鍵をかけようとも、逃げ隠れしようとも、閉じこもろうとも、そこを訪れて「シャローム」と語り、生命の息を送ってくださるのが主イエスである。実に「平和を与える主」なのである。平和とはやわらぎである。人と人との和解だけでなく、自分自身との和解、自分自身に和らぐことである。主イエスのシャロームにより、イエスの愛によって、私たちは自分自身の心の鎖を断ち切るのである。主イエスの復活は、私自身の復活でもある。

先週の祈祷会で、マーチン・ルーサー・キング牧師のことを覚えて、祈られた方があった。1968年4月4日、キング牧師は講演先の宿泊地、メンフィスで暗殺された。享年39歳。今年はそれから50年目である。公民権運動の進展は、反対者のひどい暴力行為を引き起こした。アラバマ州の教会の窓から爆弾が投げ込まれたのである。ちょうど教会では日曜学校が開かれていて、黒人少女4人が死亡し、20人が重傷を負った。キングは犠牲となった子どものために号泣した。そしてこの痛みは最後の日まで彼につきまとったのである。彼自身も、同じような目に何度も会う。
ある日のこと、キング牧師、教会員らが集まっている教会の周りを、彼らの運動を憎む暴徒たちが取り囲んだ。中にいた人々は、自分たちがこれから暴徒たちによってどんなひどい目に会うのか、その不安のためにパニックに陥いう寸前であった。実は彼も内心、恐れおののいていた。そのときひとりが讃美歌を歌い始めた。キング牧師も声を合わせ賛美し始めた。不安におののく人々に「皆さん、神を賛美しましょう」と皆にも賛美歌を歌うことを勧めた。あの有名な賛美歌「We shall overcome」(勝利をのぞみ)。キング牧師はパニックに陥りそうな人々に「繰り返し、ゆっくり、この賛美歌の詩の意味を一言一言かみしめながら歌おう」と促した。「自分たちはどうしたらよいのか?」と行き詰っていた人々が、この賛美歌から神の与えてくださる勝利を確信し、平安になることができた。もし彼らが、取り囲む暴徒たちの挑発に乗って行動していたら、何が起こったろうか。いよいよ大きくなる賛美の歌声に、暴徒は一人去り二人去り、誰もいなくなったという。
主イエスが入って来て真ん中に立ち、「シャローム、あなたがたに平和があるように」、現代の私たちの教会にも、起こる出来事である。