「悲しみは喜びに」ヨハネによる福音書16章12~24節

「悲しみは喜びに」ヨハネによる福音書16章12~24節(2018.5.6)

 

初めから私ごとで恐縮だが、この4日に、娘が結婚式を挙げた。その際には、教会の皆様から、温かなお言葉、そして教会からは、お祝いまでいただいて、深く感謝する。いずれ、本人が皆様方に挨拶するだろう。しかし、今まで時の経過を思い起こすと、ついこの間、生まれたかと思ったら、もう結婚である。月日の経つのは、真に早いものだ。
幼い時、若い時には、時間が経つのがゆっくりと感じられ、年を取ると、時間が早く過ぎ去るように思える。これは本当のことで、法則のようにも見なされているほどである。「ジャネーの法則」と言うらしい。時間の感覚は、年齢に反比例する。同じ一年でも、五歳の子の一年は、人生の五分の一だが、50歳の人の一年は、50分の一に過ぎない。

ある新聞に次のようなコラムがあった。紹介したい。時間を自由に行き来できるタイムマシンを一回だけ使えるとしたら…。この手のアンケートをすると、だいたい、未来よりも過去を選択する人が上回るそうだ。その人の年齢にもよるか。子どもたちはタイムマシンで自分の将来を見たがり、反対に大人は過去へと戻りたがると聞いたことがある。確かに、ある程度の年となれば、時間旅行をするまでもなく、自分の将来は予想できるし、見たくもないという人もいる。そんな未来よりも過去の自分や、今は亡くなってしまった親や友人に会いたいというのはよく分かる。過去の失敗を「あの時」に戻ってやり直したいという人もいるか。脚本家の山田太一さんが過去の魅力について書いている。人がタイムマシンで過去へ行きたがる傾向とも関係があるかもしれぬ。「ノスタルジーとは、過去のいいとこ取り」なのだそうだ。つまりは苦しいこと、悲しいことは忘れ、良いことだけを思い出し、昔は良かったとなるらしい。

今、この国で、この「ノスタルジー」が再び蔓延しようとしている。「過去のいいとこ取り」良いことだけを思い出し、それ以外を捨て去る。改憲論議の中心にそれがある。
今日の聖書の個所は、主イエスの遺言・告別説教の最後の部分である。主イエスが、ご自分の地上の生涯の最期、そしてそれから先のことを弟子たちに告げる。しかし弟子たちはそれが何のことか理解できない。私たちには、それが「十字架」と「復活」そして「聖霊降臨」のことを指すと一応は知っているので、もどかしい思いにさせられる。しかし、この時に、わたしがこの弟子たちの一人として居合わせたら、どうだったであろう。弟子たちと同じように、「何のことだろう。主が何を話しておられるのか、さっぱり分からない」と反応したことだろう。おそらくヨハネも、弟子たちもみな、そうだったのだろう。後でこの時のことを思い起こして、「本当に自分たちは、何も分からなかった、何も悟ることができなかった」という思いになったことだろう。そして人間の本当の姿とは、実に「分からなかった、理解できなかった」という「悔恨」や「後悔」の積み重ねなのだろう。
しかし「分からない、理解できない」という言葉に、もう一つのヨハネらしい言葉が付け加えられている。「しばらくすると」。ヨハネ福音書は、「時間」「時」を表す用語をここそこにちりばめて、私たちの時、そして神の時を象徴的に語ろうとする。つまり私たちの時、日常、生活、私たちの人生に、神の時が横切る、ぶつかる、関わってくる、というのである。

「しばらくすると」、皆さんはどれほどの時間を想像されるか。「しばらくお待ちください」はどれ程の時間だろうか。この国にも「博多時間、沖縄時間」という言い方がある。宴会や結婚式などに、参加者全員が、ぴしゃっと集まらない。1時間くらい平気で遅れてくる人もいる。そういう時間感覚のことである。皆さんの「しばらく」はどれほどだろうか。
「しばらくすると」とはおもしろい表現である。日本語訳の幾つかの聖書を読み比べてみたが、どの聖書も「しばらく」という言葉を使っている。「しばらく」というのは、本来「ほんのわずかの間」という意味。ちなみにギリシャ語では、ミクロンという言葉である。ミクロンは、現代では1ミリの1000分の1を指す単位で、ミクロの世界という言葉もあるように、目に見えない小さな世界である。それほど小さな間、というニュアンスだろう。
時間の感覚というのは、非常に主観的なものである。「しばらく」というのも、それがどれ位の長さなのかは、状況次第であるし、人によって受けとめ方が違うだろう。「しばらくぶり」と言うと、それほど短い時間ではない。ある程度経っている感じがする。「今日はしばらくぶりに何々さんが礼拝にお見えになりました」というと、「随分間をおいて」というニュアンスになるだろう。同じ時間でも、楽しい時間はあっという間に過ぎるが、苦しい時間は、言いようもなく長く感じる。「熱いストーブの上に座る5分は、何と長い時間のことだろう」という喩えもあある。また「テレビドラマの30分はあっという間なのに、礼拝説教の30分はなんでこんなに長いのか」と感じている人もあるかも知れない。

「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Ⅱペトロ3:8)。神の時間(永遠)と人間の時間(有限)が交錯するのが、聖書の時間感覚だと言ってもいい。人間の時間だけで、物事と事柄を判断しないように。永遠と言う時間の中で、今の私のあり方を考える必要も有るだろう。
弟子たちにとって、主イエスと共にいる「しばらく」の間は、約3年間は、あっという間に過ぎただろう。中学高校はそれぞれが3年間であるが、その三年はあっという間に過ぎて、子どもに大きな変化をもたらす。「たかが3年、されど3年である」。しかし、その後の悲嘆にくれる「しばらく」の間は、とても長く感じたことだろう。しかしそれもずっと続くわけではない。「しばらく」の間は、あなたがたを苦しめる者が勝ち誇ったように喜ぶことになるが、それはやがて過ぎ去る、やがて覆されることになる。そういう風に、主イエスは諭されたのである。
私たちは、この世で、様々は苦しみを味わう。痛みを覚える。これが後、どのくらい続くのか、先が見えないことも多い。しかし、それは永遠に続くのではない。限りのある「間」なのである。時は神が支配されているもので、永遠はひとえに神のものであって、私たちは、神の定められた時を生きるのである。
詩人の川崎洋さんの作品に、少々変わった詩が有る。「Mさんへ」

おじさん(私)には
Mさんの悲しみの深さが
半分だけ わかります
おじさんも18歳の時に
父を亡くしているからです
でもご両親を失った嘆きが
どれほどであるのか
おじさんには今言葉がありません

うちの葉子が
Mさんに
詩を書いてあげて と申しました
一所けん命考えた末だということです
でも
お読みのように
詩だかなんだかわからないものに
なりました
なにを言っても
Mさんの今の悲しみは
うけつけてくださらないだろう
と思うからです
そしてそれがとても当たり前のことだと
思うからです

今のMさんの気持をいっぱいにしている
まっ黒で重くて どうしようもないもの
それは
つらさとか苦しみとか そんな言葉で
かんたんに表現できるものではないでしょう
これが夢だったら
とMさんは何度も思われたことでしょう

でも
一日を我慢して 二日目を我慢してください
それが三日になり 一か月になり
やがて一年になります
そして五年がたちます
そのとき
きっと今とはちがいます
ですから
今を我慢してください

あなたと同じような人が
たくさんではないにしても
ほかにも いることを思ってください
あなただけが 疲れないでください

「忍耐」と言われる。「しばらく」の間を生きるには確かに「忍耐」が必要である。しかし聖書が教える「忍耐」は、下を向いてただ一人、じっと我慢することではない。今日の個所の最後に、こう語られる。「あなたがたは、今まではわたしの名によって、願わなかった。願いなさい、父はあなたがたの願いを聞いてくださる」。私たちのうめきを嘆きを、聖霊のとりなし、取次ぎによって、神はしっかりとお聞きくださるというのである。だから、「悲しみはいつか、喜びに変わる」、否、変えられるのである。