「わたしを離れず」ヨハネによる福音書15章1-11節

「わたしを離れず」ヨハネによる福音書15章1-11節(2018.4.29)

 

ごく小さい頃の思い出だが、自宅の軒下に、ぶどう棚がしつらえられていた。戦後、10年ほど経っての時代だが、家の庭には、いちじく、柿、ざくろ、きんかん等、あらゆる果実が植えられていた。当時の食糧事情によるものだろう。ぶどうもまたその一つだったのか。ただそこに実るぶどうは、小さく堅く、酸っぱく、およそ美味しいものでなかった記憶がある。ぶどう、いちじく、ざくろ、オレンジ等は、果物の代表格であるが、それらは古代から地中海地方で盛んに栽培された。聖書の世界パレスチナでも、それらは特産品であり、現代でもイスラエル産の果物は、味の良さで評判である。最近、人気なのは、日本原産と言われる「柿」である。イスラエルからヨーロッパやアメリカに沢山出荷されているそうだが、名前はそのまま「kaki」で通用しているらしい。

今日の聖書の個所では、「ぶどう」が登場する。「わたしは~である、エゴーエイミ」の構文として、主イエスが「ぶどうの木」に喩えられている。以前、礼拝で、ぶどうの木である主イエスの恵みを、直に味わおうということで、礼拝中に皆でぶどうの実を一粒づつ食した。果物屋さんに「そのまま食べられて、種がないぶどうはあるか?」と尋ねたら、「シャインマスカットがお勧め」と言われ、少々値は張ったが、買い求め、礼拝中に皆で味わった。この試みは非常に好評であったが、後で皆に感想を求めたところ、「甘かった、香りが良かった。おいしかった、こんなぶどうは始めて」とぶどうの味のことばかりで、肝心のみ言葉はどうなった?という具合であった。
さて2節「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。神がぶどう園の農夫に喩えられている。正確には、「ぶどうを育てる職人」である。英語の聖書では「Vinedresser」と訳している。美しいぶどうが実るように、世話をする人のことである。「手入れ」とあるように、ぶどうが実るためには、一年中、いろいろな世話が必要である。放っておけば、かつての田中家のぶどう棚のような有様となる。堅く小さく酸っぱいぶどう。イザヤ書で「ブドウ畑の愛の歌」と呼ばれる個所がある。神がインフラ整備の限りを尽くして美しいブドウ畑を作った。しかしそこでとれたぶどうは、「酸っぱい腐れぶどうであった」とあるのは、ひとえにブドウ園の職人の手抜きである。

こんなニュースが伝えられている。甲州市勝沼町下岩崎のワイナリー「まるき葡萄(ぶどう)酒」で、羊が活躍している。同社では2013年から飼育を始め、冬場に畑に生えた雑草を食べたり、歩き回って畑を耕してくれたりと有機栽培に役立つ一方、工場見学に訪れる親子連れらに愛嬌(あいきょう)をふりまき、人気となっている。今春には畑に羊を放して初めて採れたブドウで作ったワインも完成する。同社では「羊を取り入れ、一石二鳥、三鳥の効果がある。「羊は畑を歩き回り、雑草を食べながら地表を掘り起こします。そのため土壌の状態がよくなり、排泄物も健康的な肥料となっています」。
ぶどうも羊も、イスラエルの原風景である。沢山の羊がのんびりと草を食み、ぶどうの木が、たわわに実を付ける。これこそ人々の幸せ、希望、安心の極みだったろう。そして羊もまた、ぶどうの実りの手助けをするのである。主イエスは、羊について語り、ぶどうについて語る。主イエスの言葉は、まさに生活そのものの中から生まれている話である。
その世話の中で何が最も重要か、と言えば、「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」。つまり、枝の剪定作業である。ある職人さんが語っていた。「素人は、もったいながって枝を切ろうとしない。そしてなった実を全て実らせようとする。それではいいぶどうはできない」。この「実を結ばない枝」という言葉、皆さんはどう受け止めるだろうか。「実を結ばない枝」というと、すぐに私たちは、「役立たずの、無駄な、利益を上げない枝」、と想像する。資本主義はプロテスタンチィズム精神の発露といわれる。その根本にある価値観は、「質素、倹約、勤勉」であるが、その価値観の基礎は、「実を結ぶかどうか」、結果を出せたかどうか、利益を生み出したかどうかなのである。結果を出せないものは、みな父が取り除くのである。しかしこの譬で主が語ろうとしているのは、そう言うことなのか。

実際、ぶどうの木の剪定とは、どういうものか。ぶどうの栽培家がこう言っている「ブドウ栽培の中でも特に重要だと言われる冬の剪定では、次の年にブドウの実を育てるための枝だけ残して、それ以外の枝を切り落とします。剪定作業をすることで、来年収穫するブドウの数や質を調整しているわけです。どの枝を残して、どの枝を切るのかという判断は決して簡単ではありません。基本的には土から栄養を吸収しやすい根に近い部分の枝を選びますが、枝の伸びる方向や周囲とのバランスを考える必要もあります。ブドウ栽培をしている知り合いは、一本一本枝を確認しながら手作業で行うこの作業が一番ブドウ畑と対話をしている気分になると話していました」。こういうぶどうを育てる背景を知ると、今日のテキストが、ブドウ栽培の実際を、非常に良く反映していることが分かる。剪定された枝は、非常に大量となり、フランスでは、作業の打ち上げとして、野外でその大量の枝を燃やして肉を焼き、皆で食事を楽しむそうである。
さて「切り捨てられる」枝について、さらに考えたい。それらは「実を結ばない」枝だと言う。そもそも「実を結ぶ」とは何を指しているのだろう。ヨハネの福音書では、「結ぶ」という言葉を、「フォロー、運ぶ、続ける」という用語で表現している。ぶどうの木の幹からの養分を、絶え間なく運び続けて、その絶え間ない連続が、いつか果実となって、実りを与えるというニュアンスだろうか。だから栽培家の言葉ように「基本的には土から栄養を吸収しやすい根に近い部分の枝を選ぶ」ことになる。栽培家によれば、ぶどう作りは、休む暇がないという。「ぶどう園との対話」に喩えられるように、まずぶどう作りは、まず冬、木が眠っている時の剪定から始まる。そしてそこからねんごろな手入れ、世話によって、長い時をかけて、初めて収穫がもたらされるのである。そこではそもそも、枝が実を結ばせるのではない。枝は養分と言う、ぶどうの木の恵みを、運ぶもの、運び続けるものである。しかし、一年を通して、小さな枝の働きがなければ、実は結ばないのである。主の恵みを運び続ける小さな枝、その枝を、神は手入れして、世話を焼いて、育ててくださる、というのである。ある聖書学者は、5節をこう訳している「わたしにつらなっている者があれば、わたしもその人の中にあって働く。そうすればこの人は、豊かな実を結ぶのである。わたしがその人を通して私の業をするからである」。
以前、あるお母さんからこういう言葉を聞いた。何人かのお子さんを育てているが、末のお子さんは、しょうがいを持って生まれてきた。「この子のおかげで自分は初めて親になれた気がするんです」と、そのお母さんは言う。この世的に立派な功績を積み、成果を上げるということはないかも知れない。見事に葉っぱを茂らせているわけではないかも知れない。けれどもその子どもはその生命・存在によって、母親を新たに生かし、養った。生かされていることの恵みを知らされたのである。これこそ神の果実であろう。